【グスタフ・マーラー】代表曲・交響曲第三番第6楽章の解釈「神が生きていた時代をもう一度」

2021年10月1日金曜日

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交響曲第三番第6楽章との出会い

マーラーの代表曲の一つである交響曲第三番第6楽章のレビューを書きました。


この曲を知ったのは「西洋音楽史ー『クラシック』の黄昏」などの解説書からです。


■交響曲第三番第6楽章の所感

さて、この曲の冒頭の印象は牧歌的に思えました。

誰でも口ずさめそうな旋律です。


音楽家は一般的に、人の注目を集め記憶に残るよう誰も聞いたことがなく、誰も考えつかない作曲を追い求めるはずです。

しかしこの曲は、凡人でも鼻歌で作曲できそうな雰囲気を保っています。

これはマーラーが旋律からあえて独創性や小難しいテクニックを排除したからではないかと考えます。


それにはマーラーのある世界観を作りたいという思惑があったからではないかと考察しました。


■グスタフ・マーラーが活動した時代背景

マーラーが生きていた1860年から1911年、近代ヨーロッパでは、ローマカトリックをはじめとする古くからの宗教は習慣化し、人々に神聖さや神秘さという感動をもたらす力を昔ほど持っていなかったと思われます。

 

神はすでに御業を終えられた。

神は死んでいる。


両親をユダヤ人に持つマーラー自身も出世のためにユダヤ教からローマカトリックに改宗したと言われています。

 

敵国に侵略されているところを天使の軍勢により一掃された力強い神、

飢餓に瀕し、乾いた土塊を握って突っ伏していた時に恵みの雨、恵みのマナを降らせて救ってくださった慈しみ深き神、

目の見えない人、足の不自由な人、病に嘆く人、罪の呵責に苦しむ人を癒し、解放してくださった哀れみ深き神、

それらはすべて書物の中だけのおとぎ話となってしまっていたとしたら・・・。

 

奇跡はやみ、祈りは虚しく、神の姿は見えない、この途方もない世界。

どこかで奇跡らしいことを見聞きしても、結局は人間の仕掛けに過ぎない。もしくは科学によってことごとく解明されていく。

かつて死にさえ打ち勝つ希望と確信を人々に与えていた宗教の力は影も形もなくなってしまった。

 

マタイによる福音書第4章4節の中には、

「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである」

とイエスが聖書を引用した箇所があります。

 

人間はいつの時代も、対象が宗教・神から別のものに移り変わったとしても、自分の精神を満たすものを追い求めるものだと思います。

権力者も被征服者も、富める者も貧しい者も、賢い者も無学な者も、そしてマーラー自身も、人の手の届かない神秘的な感動に飢えていたのではないでしょうか。

生きるため、生き残るためにないがしろにされがちではあるけれど、

自己保身も詭弁も、買収も賄賂も、反証も言い訳も、通用しない、むしろそのような邪道に逃げる弱い心を罰し、心痛をもって魂を貫いてくれる至上の存在を、できれば信じたいと思っていたのではないでしょうか。

 

交響曲第三番第6楽章の最後の部分、動画では19:30秒より少し進んだところから、

冒頭で牧歌的だと評した最初の旋律が荘厳なアレンジを施されて再登場します。

マーラーにユダヤ人の宗教観が残っていたとしたら、この楽曲はまるで旧約聖書の世界観を表しているようにも聴こえます。


■神が生きていた時代の再現性を感じる

神がまだ生きていて、人々が大地で祈れば、天が開いて想像以上のスケールで祈りに答えてくれた時代の物語の再現のようなのです。

人間は無力で無知であり、小さな存在。でもたとえつたない言葉でも謙遜になって祈るのなら、神が答えてくださってすべてを解決してくださる。

そんなことはもちろん夢か空想か、やはりおとぎ話か。でもせめて音楽の中でなら、そんな世界を作り、浸ることができる。人々と共感することができる。そんな思いで創作されたのではないかと思いました。


参考文献
西洋音楽史ー「クラシック」の黄昏 岡田暁生(著) 


【4分33秒】終始無音で有名なジョン・ケージの作品を考察 ジョン・ケージ作曲の「4分33秒」はクラシックに興味あるものなら誰しも聞いたことがあるのではないか。いや誰も聞いたことはない。なぜならそれそのものがタセットだから。しかし耳を傾けるという意味で聴いたというなら否定できない。無音の中に聞こえる音楽とは?無音だからこそ伝わるものとは?無音と休止の違いとは リンク eliasmates.blogspot.com

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