【本田圭佑】2018年ワールドカップ日本代表への批評と感想

2021年10月29日金曜日

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2018年ワールドカップ日本代表

■劇的な試合

2018年ワールドカップの日本代表は、僕に良質な一本の映画、一冊の小説と出会わせてくれたくらい大きな感動を与えてくれた。

そういった自分の時間を他者に捧げる行為から、想定以上の見返りを受けることはそう多くはない。

もともとスポーツ観戦などしない人間だったし、どこかのクラブチームを応援することもない。サッカーだけでなく、野球も、バレーも、バスケも、国際大会くらいしか気に留めたことがない。ワールドカップのニュースに目をやるようになったのも、友人の話題についていくために過ぎなかった。

「見るよりもやる方が好きです」と答えるのが常であった。スポーツ観戦がただ勝負の結果に一喜一憂するエンターテイメントではなく、選手一人一人の人間性と生き様に焦点を当てたドキュメンタリーであることを知らなかったからだ。

偉人の自伝を読む楽しさは経験したことがある。スポーツ観戦には自伝が書き上げられる瞬間をリアルタイムで見ることができる面白さがあることに気づいた。そしてもっと熱心に応援するのであれば、自分もその本の登場人物の一人になれるのだろう。

FIFAランク61位の日本代表が、3位のベルギーと戦う。勝てるわけがないと数字が説得してくる。数字は経緯の証明であって根拠がある。しかし、その根拠をも覆そうとする感情を代表選手らは呼び起こしてくれる。

前半の死闘を乗り越える。相手チームをよく研究し、連携して危機を一つひとつ丁寧に処理していくプロの仕事であった。

後半の頭で、原口選手がシュートを決める。強烈に圧迫するベルギーへの恐怖を打ち破った。

続いて乾選手がミドルシュートを決める。寝ぼけて夢を見ているのかという感覚だった。

後半20分ほどまで、日本代表は優位にゲームを進める。ベルギー代表には焦りの色が見えていた。そして二人の選手交代である。

警戒すべき変化であったが、日本側のパスミスからボールを奪われコーナーキックに持ち込まれる。一度は凌ぐも、二度目のコーナーキックで1失点目を許す。

間もなく2点目の失点を喫する。僕はうろたえた。急に心細くなった。悪い流れだという空気を払拭できない。しかし、日本代表らの顔から闘志に陰りは見えない。

その時、彼ら一人ひとりの背景に過酷な練習と激戦を乗り越えてきた人間的な厚みが見えたのだった。何度も危機を乗り越えてきた人たちなのだという。そして一途に応援してきた人たちもそうだ。人と人とは、辛い場面こそ、信じ合わなければならないのだ。

■スター選手の存在感

後半の後半で、本田選手が入り、香川とのコンビネーションでゴールに迫る。

今期で自分にとって一番の変化と言えるものの一つは、本田選手を好きになったことである。まったくの部外者の僕にとって、彼の印象はビッグマウスで他者を見下しているというものだった。ビッグマウスについては自分への戒めか、スポンサー向きの発言であるという理解はしていた。営業が自分や自分の商品を悪く言うことはない。そしてそのプロモーションにうがった見方をする人も出てくるのは世の常である。

チームで孤立しているとか、仲間の手柄を喜べないとか言われているけども、実際はチームメイトに慕われ頼られる存在だという。原口のシュート練習を指導したのも彼だ。このチームを分断させ孤立させようとしていたのは、むしろ見物人側だったらしい。

原口、本田からゴール指令「狙い続ける姿は勉強に」日刊スポーツ2018年6月27日https://www.nikkansports.com/soccer/russia2018/news/201806270000068.html(2018/7/4)

そして本田のドリブルはやはりすごい。パスでつなぐことが多かった日本代表の中で、ベルギー代表と面と向かってドリブルで突破していく。動きにも変化がついた。

相手キーパー、クルトワに止められはしたものの、フリーキックの軌道とスピードは本当にかっこよかった。

もっと彼の活躍を見たい。彼はヒーローだと思った。

ところで選手は戦いの中でいくつかのミスをするわけだが、このミスへの批判について一つ意見したい。

まず、ミスとは誘い出されるものであることを念頭に入れておかなければならない。ネットの批判の中に多いのが、「あれは仕方がなかった、相手が強すぎた」と、相手の影響力を考慮するものと、「これは彼のミス」と単純に個人のものと分ける考え方がある。しかし、ごく個人的なミスと思われているものの中にも、相手のいるフィールド上で起こる限り、相手から誘発されたミスであることは疑わなければならない。

慣用句に「赤子の手を捻る」というものがある。これはもちろん本物の赤ちゃんの手をひねるときに使うのではない。意味は

①実力がちがいすぎるので、かんたんに相手をまかすことができてしまう。
②抵抗する力がない者に暴力をふるう。

ことわざ・慣用句の100科事典https://proverb-encyclopedia.com/baby/(2018/7/4)

とされる。そしてこれは負ける側への意外性も含まれている。つまり、「いつもは強いのに、または見た目が強そうなのに、まるで赤子の・・・」といった感じである。

対人的な勝負の世界においてパフォーマンスとパフォーマンスが単純に繰り出されてぶつかり合うということはない。むしろどちらかが強ければ、強い方のパフォーマンスがもう片方を押し込めて身動きをとれない形にさせる。勝負の世界においてまず起こるのは、相手のパフォーマンスを阻止するということなのである。

だから強豪チームとの戦いしか見ない人が、まるで赤子のように敗戦したチームを嘲笑することは、起こり得て不思議ではない。

自分のパフォーマンスができず、あたふたするチームを見て、これが代表?と疑う人もいるし、「これなら俺のほうが上手い」などと言ってしまう人も出てくる。実際はできないのではなく、相手チームがそうする余裕を与えていないのである。

だから、今回日本代表にミスが目立ったとしても、それを単純に批判することはできない。選手がとった、周囲からは理解され難い行動も相手に誘導されて表出したことは十分考えられる。批評する際に忘れてはならないことである。さて話を戻すが、


最後、日本側のコーナーキックから10秒かからないカウンターを食らって逆転負けする。

僕は中継を見ながら、それが映るタブレットを見つめながら肩を落とした。

わずか20分あまりで、絶頂の勝利から突き落とされる。これほどまでに勝負の世界は厳しいものなのか。勝たせてくれはしないのか。泣いた人もいるだろう。僕は浅い眠りについた。

とてもいい天気で日差しが眩しい。休み時間に五日市街道に沿って流れる仙川上水の木陰の下で、ベンチに座りながら缶ジュースを片手に休憩した。スマホで見るニュースには、日本代表の健闘を称える記事で埋め尽くされていた。選手各々のインタビューも載っている。

悔しさや無念な気持ちが正直に吐露されている。サポーターへの感謝と前向きな姿勢が心を打った。

僕は今期の日本代表が本当に好きになっていた。冒頭で映画や小説を見たようだと言った。終わった後に、まだ胸を打ち続けているからだ。選手たちの健闘と言葉が僕に勇気を与えてくれる。もうちょっと頑張ってみようと思わせてくれる。試合を振り返って考えさせられる。考えに浸らせる作用がある。結果を理解し、受け入れられるように迫られる。

サッカーに魅せられた僕であるがサポーターと言えるほどではない。Jリーグの話題も友達と話す程度の入り方になってしまうだろう。でももうちょっと見る回数が増えそうだ。アジアカップは見てみようと思う。あと、テレビを付けて偶然サッカーの試合が中継されていたらきっとチャンネルは変えないだろうと思う。

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