被害者の声に耳を傾ける
■八街児童5人死傷事故
6月28日に千葉県八街市で起こった児童死傷事故。
二人が死亡、一人が意識不明の重体、もう二人が重傷を負う痛ましい事故である。
児童5人死傷事故 運転手 数時間以内に飲酒か 危険運転で捜査 | 事故 | NHKニュース
事故の原因が、トラック運転手の飲酒である疑いが浮上し、ニュースを耳にした多くの人が困惑とやるせなさ、そして強い憤りを覚えたことだろう。
飲酒運転は防げたはずだ、と思うところが大きい。
■風見しんごさんの訴え
多くの人が想像力と同情をもって事故に関心を向ける中、実際の、過去の傷心により事故への反省を訴える男性がいた。
俳優の風見しんごさんである。
彼は14年前、交通事故により最愛の娘さんを亡くしている。
私の記憶にも当時のニュースが蘇ってきた。
「ああ、そうだった」とため息を漏らした。
彼は著名人としてテレビで、交通事故から子どもを守るため親が何をすべきか、自責の念とともに訴えたのだ。
■訴えに対する否定的意見
記事の見出しは「一緒に登下校を」や「登下校の時、一緒に歩いて欲しい」となっている。
Twitterなどでは、この記事の見出しで広く拡散されることになる。
多くの場合、同情的な言葉が添えられているのだが、その中で、以下のような否定的な意見が見受けられた。
- 「親が一緒に投稿してもトラックは止められないだろう」、「一緒に死ぬだけだ」
- 「毎日、登下校をするのは非現実的すぎる」
- 「なぜ親が変わらなければならないのか。悪いのは事故を起こす運転手の方だろう」
上記の記事はとても短いものだが、それでも読んだ人にとってこれらの批判的意見が見当はずれであることがわかるだろう。
まず1の事故現場にいたとしても親は無力だという意見。
風見しんごさんの発言記事からは、事故が起こった時に親がいれば助かった、というようには読み取れない。
これは多くの肯定的な意見が上がっているのであえて言うまでもないのだが、彼が言いたいのは、自分の子どもが日頃どのような道を歩き、どのような歩き方をしているのか、そしてそこに危険性はないのか、子どもの立場に寄り添ってほしいというのに近いと思われる。
その後、子どもと交通安全に関する話し合いをしてもいい。
子どもは経験がまだ少ないため、具体的な共感がなければなかなか考えも行動も変えられない。
大人のように、いわれたことを自分の過去の知識と照らし合わせて要領よく理解することができないからだ。
また、大人だって交通安全を子どもに教える際、実際の道を知らなければ大雑把なことしか言えないだろうし、そうすると無駄な情報が多くなりかえって伝わらなくなってしまう。
教えるのは理解を促すためである。
だから子どもの理解を助けるのであれば、むしろ話し合いという方法でもいいわけである。
そうすると一緒の時間を過ごし、一緒のものを見ることはとても大切である。
子どもとの関係のみならず、人というのはそういうものではないか。
一緒に食事をしたから相手の好きなものがわかるのであり、同じ映画を見たから登場人物の仕草ついて語り合えるのである。
次に2の毎日登下校に付き合うのかという批判であるが、風見しんごさんは「毎日」とは言っていない。
「1回だけじゃない」と言っているのだ。
そして「雨の日」、「冬」と言っている。
ここから読み取れるのは、様々な状況、様々な環境下で登下校を見るべきだということである。
雨の日は傘を差さなければならない。
もしくはレインコートを着ている。
すれ違う歩行者や自転車もそうだ。
水たまりをよけるために歩道からはみ出るかもしれない。
交通量も違うかもしれない。
夏と冬では、子どもの興味が変わるかもしれない。
服装や温度の差で動きが変わるかもしれない。
子どもの成長とともに目線の高さや、行動パターンも変わっていく。
また1度の情報というのは主観性が強く、データとしては信頼度が低い。
データは蓄積してこそ意味が出てくるものなのだ。
最後に3の「悪いのは運転手、親は被害者」というものである。
もっともだと思うのだが、事実で悲しみは癒えないのではないだろうか。
事実は子どもの命が失われたことでしかない。
事実は時を戻せないのだ。
これは記事の中で、風見しんごさんが身をもって訴えていることの本丸であると思っている。
この当事者意識をみんなに少しでもわかってほしいのだと思う。
正論で事故が防げるのか。
もっと言えば言葉の力は人の過ちを防ぐのに足る存在なのか。
またしても言葉というのは現実から遠く離れているものでしかないのではないか。
風見しんごさんは「亡くなる前にやっていただけたら」とガードレールが積極的に設置されないことに対して苦言を呈している記事もあった。
ただ、ニュアンスとしては現実的に難しい面もあることを重々承知している上での訴えとなっている。
おそらく、「一緒に登下校する」というのは交通安全に対する子どもとの理解を深めるというソフトの面だけでなく、子どもにとって危ない場所を見つけ行政に訴えかけて道路環境を見直してもらうハードの面の改善の意味もあるのだろう。
事故の起きた現場でも、かなり前から歩道の設置の要望が出ていたようだ。
菅総理も現場を視察に訪れ、歩道の設置の促進を約束した。
ガードレール設置「措置遅れた」 児童5人死傷事故で千葉・八街市長 - 産経ニュース (sankei.com)
運転手が悪い、というのはその通りなのだろう。
この事故は飲酒運転だからということで特にそういう感情が強く出るものと思われる。
だからガードレールを作ることが加害者を作らないためでもあるというと、被害者をないがしろにしているように聞こえるかもしれない。
しかし今回の事件、もし歩道があったら、そしてガードレールがあったら、相手は大型トラックである、それでも被害をもっと小さくできたかもしれない。
そうすると子どもを守るということはその子どもたち本人のために他ならず、決して運転手や社会に教訓を与えるためではないということになる。
子どもが犠牲になったことで被害者の飲酒運転が断罪されるようになったとか、道路が安全になったとか、3でいわれる批判がそんなことを意図して言ってはいないにしても、突き詰めていけばつまりはそういうことになる。
加害者を裁くことと、被害者を出さないようにすることは切り離して考えなければならない。
むしろ飲酒運転はただ飲酒運転の罪によってだけ裁かれ、子どもたちは守られ生かされなければならなかったのだ。
飲酒運転がだれかの事故死によって明るみになるのではなく、飲酒運転は飲酒運転としてのみ裁かれるべきなのだ。
■批判の前に学ぶ姿勢を
以上の三つの批判は、記事の見出しだけしか読んでいないために生じた誤解である節が強く、非常に少数でもある。
今回の記事で取り上げられた風見しんごさんの提言というのは、おそらく彼自身が交通安全運動に精力的に取り組む過程で築き上げた理論なのだろう。
その中には、彼と同じように子どもを交通事故で亡くした親御さんたちの訴えや、不幸な交通事故を少しでも減らそうと研究する有識者の見解も多分に含まれているのだと推測する。
彼は膨大な経験則の集積の上に立つ被害者の代弁者にして代表者でもあるのではないか。
幼児(歩行編) | 保護者の方・学校教育関係者向け | 交通安全!百科事典 (ja-kyosai.or.jp)
保護者の皆様による安全対策、お子様の心理を踏まえて通学路の安全点検を!新一年生を事故から守るために。(大谷亮) - 個人 - Yahoo!ニュース
上記の記事は「通学路の安全点検」と呼ばれる交通安全対策で、「一緒に登下校」の方法や効果が詳しく書かれている。
だから、記事の見出しだけを見ての批判は問題外であることはもちろん、対等な議論の立場を得られたとしても言葉に気を付けなければならない。
私達には知らない領域、感じられない思い、察するに有り余る経験が多くある。
私達にとって学ぶべきことばかりである。
私たち大人は教えようとする前に、まず学ばなければならないのだ。
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