【ジャンポールサルトル】文学の責務―人間は本能を言葉に替えた

2021年10月20日水曜日

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文学によって得た可能性

フランスの作家、ジャン=ポール・サルトルは「作家とは、語るとは行為であること、暴露するとは変えることであ〔る]・・・(中略)ことを知っている。」と言った。『文学とは何か』加藤周一、白井健三郎、海老坂武 訳(人文書院)

言葉とは人間の思い、それだけにとどまらない。言葉とは周囲に影響を与える手段であり、実行力である。

「言うは易く行うは難し」とか「井戸端会議」だとか、言葉の力を軽視する諺や言葉も用意されている。そういう行為もあるだろう。しかし、それは絶対的な行動といえるものについても同じことがいえる。詐欺師の大がかりなまじないよりも、子どもの純粋な肩たたきの方が親の体を癒してくれるに違いない。

言葉は人間の本能である。いや、誤解を招くことがないように、人間は本能を、言葉に置き換えた動物だと言い直しておこう。

虫は触覚を通して、反応し、拒絶し、また群がったりする。その他の動物もいたって平然と視覚、聴覚、嗅覚、その他の感覚器官を通して学習を繰り返しながら繁殖する。

人間は生まれたばかりで放っておかれたら何もできない。育てられなければ命をつなぐことはできない。他の動物も確かに親はいるし、養育期間はある。しかし、人間の自立性は他の動物に比べ著しく低いのだ。

人間は本能を捨ててしまったのか。いや、捨てた代わりに言葉に賭けたのだ。人間は先天性よりも後天性の可能性に重きを置くことによって、変化と進歩を可能とする動物となった。

本能という内部に備えられた力ではなく、言葉という外部から影響を受ける力によって、エネルギーの蓄積を可能とした。

人にとって言葉こそ本能であり、言葉を聞く力こそ、他の動物にみられる触覚と感覚器官であるのだ。

ロラン・バルト、彼もフランスの著作家だ。「文学の記念碑的作品のうちには、あらゆる学識が含まれている」と語っている。『文学の記号学―コレージュ・ド・フランス開講講義』花輪光訳(みすず書房)1981

人間は言葉を上手に使うことによって進歩する。それが人間が、人間として託した力だからだ。言葉への理解を価値観と言い換えてもいいだろう。

本能の対義語は理性らしい。

しかし本能の対義語は言葉と言っても私はいいと思っている。

もし、人が言葉の理解を誤ったら、それは人類の進歩を弱めることになる。動物界における死滅である。

何も人間だけが動物の中で特別な存在ではない。

多様な価値観の中には人に益しないものもある。文学は人類の反省を責務としているに違いない。反省するのもまた言葉を使う人間のなせる業である。いや、反省を誇ってはいけないが。

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