カメリア考察|この世界にはヒーローとアイドルが必要だ|カミフレ

2021年12月10日金曜日

★Bblock 音楽レビュー

t f B! P L

1stシングルで示された方向性

ブログサムネMIYO(野村実代)
カミングフレーバーが12月1日、新曲である「カメリア」のMVをYouTubeにて公開した。

これまでデビュー曲の「せ~ので言おうぜ!」のMVがavexの公式YouTubeチャンネルから公開されているのみであった。

カバー曲の「今すぐKiss Me」は自身のチャンネルから配信してはいたものの練習やレコーディング風景の切り抜きであったため今回こうして本格的なMVが作られたことはファンとして嬉しい。

カミングフレーバーの方向性については、私はてっきりSKE48のマイナーな曲を掘り出していくか、懐かしのJpopに振り付けを与えていく路線で行くと思っていたから、今回のダークで前衛的な世界観には意表を突かれた。

意表を突かれたけれども、とてもしっくり来たというのが、彼女たちを応援して来た人たちの大半が抱く感想なのではないだろうか。

まずそのMVを見ていただきたい。

単純に私たちが思い描くカメリア(椿)を感じられるほど素直な作品ではないという印象を持つ。

いや私たちが普段、椿としてなじみ深かった花をカメリアと呼ばせるくらい奇をてらった作品といった方がいいかもしれない。

1.所感

2.ダンスと映像演出についての批評

3.歌についての批評

4.歌詞についての批評

5.カミングフレーバーの今後について

6.カミングフレーバーに感じる率直な思い

7.この世界にはヒーローとアイドルが必要だ


1.所感

ロケーションは廃墟であり、イントロは50秒と長く、初動は雰囲気作りに時間をかけている。

イントロに時間をかけてはいるがラスサビがないため曲自体は4分とコンパクに収まっている。

イントロの長さを拍子にして数えると歌い出しまで24小節と2拍もある。

歌がメインの楽曲とは単純に比較するものではないが、イントロが長くて有名なスキマスイッチの「ボクノート」でも数えてみると秒数にして52秒、拍子にして17小節と3拍ほどである。

イントロの間、彼女たちは踊っているわけだから単に待たせているといった風でもない。

むしろ視聴者をここで「カメリア」の世界観に引き込もうと勝負に出ている。

まるで舞台が始まったかのようであり、お芝居を見ているようである。

ダンスがメインのMVではあるがドラマチックであり何かストーリーを感じる。

ヘヴィメタルやセリフのない劇など、自らが堂々と時間を支配するような大胆な演出をも彷彿させる。


限られた時間を有効に使うことに焦点を当てれば、例えばサッカーでも将棋でもいきなり前にツッコんで行ったりはしない。

少し様子を見る時間、自陣の守りを固めることに時間を割く。

そして堀を埋めて、ここぞというときに本丸をたたく。

素人がこれを安易にまねすると単に手数のロスとなり追い込まれてしまうが、プロの世界では定石でありそれができるか否かで格の差を見せつけることになる。(もちろんその定石を見越して速攻や奇襲をかける戦法もあるが)

だからこの「カメリア」も構成としては玄人っぽさがあるし、本来アイドルが重要視するエンタメ要素に加えて芸術要素が強い印象を持つ。

この曲は目で見る音楽だ。

それだけに彼女たちの表現力がより一層試される楽曲といえるだろう。

2.ダンスと映像演出についての批評

表現力を示す技術の一つとしてダンスがある。

ライブであれば全員に動きがあるところもMVにおいては彼女たちの動きを効果的に切り取るため、ここでは映像演出も併せて評価する。

歌については次の段落で述べるつもりだが、必要に応じてここでも多少言及する。

事細かに制作側の手腕について述べないが、私がカミフレのメンバーを評価するとき、それは同時に製作者の技能やセンスを評価していると捉えてもらって差し支えない。


イントロ

MVでは短いカットで次から次へと一人ずつ映していく。

ライブを見るとわかるが、実際は7人が円形になったり一列に並んだりして丁度カメリア(椿)の花を表すような形を作っている。

後述するつもりだが歌詞にはタイトルの「カメリア」という言葉は出てこない。

彼女たちのダンスが曲と一体になって初めて一つの作品になるといえるのかもしれない。

カミングフレーバーのスタンスとしてはダンス表現に重きを置いていることもあり視覚的要素がないと彼女たちの魅力を完全に伝えることはできないだろう。

そういった意味でこれまで彼女たちが一番生きる場所はライブであった。

ただ以前、【ライブビューイング】聴衆を音楽の芸術性に近づけるテクノロジ にてYouTubeの躍進とともに音楽に視覚要素が戻ってきたと記事に書いたように、今回映像の力を味方につけたことは間違いなく、パフォーマンスを重要視する彼女たちの活躍を後押しすることになるだろう。

さてイントロの冒頭、霞がかった暗がりから最初に姿を見せるのはリーダーのMIYO(野村実代さん)である。

彼女は大人っぽい綺麗さ、少女のかわいらしさ、アーティストのカッコよさを併せ持つ。

見る人が見る角度でその表現を選ぶ標題だ。

イントロで踊るMIYO(野村実代)

丁度、イタリアの彫刻が動き出したような妖美さ。

幾千の美術家たちが己の作品に動いてくれと願ったことだろう。

彫刻に、絵画に、魂よ宿れと渇望したことだろう。

MIYOはそんな願望をファンタジーからリアルに変えた。

彼女がリーダーだから先陣を切ったと言えばそうかもしれないが、彼女だからリーダー、彼女だから最初と言い換えても何ら違和感はない。

同時に我々はカミフレに新たな命が吹き込まれた瞬間を目撃したことになる。

そしてこのダークな世界観、形容するなら二次元的な雰囲気、それを私たち3次元と調和しているのもMIYOの役割であると思っている。

そこからメンバーが次々と移り変わりHINANO(青海ひな乃さん)がしんがりを務める形になっている。

この順序についてはMVの映し方に過ぎないが、後の歌割りでHINANOが重要な位置に立つ伏線と捉えてもいいかもしれない。

またこのイントロはカメラワーク・照明・編集力の本気度を伝える部分にもなっている。


1番Aメロ

先ほどの一人ひとりのカットの結合とは違い、1番Aメロからサビまでがワンカットで一人ひとりを映すスタイルに変わる。

編集では補填できない彼女たちのダンスの実力と努力が垣間見えるシーンである。

聴衆の注目を引き付けるMIYOからバトンを受け取ったYU-KI(大谷悠妃さん)の声は無心から発せられているようだ。

それはこの世界観にまだ入り切れていない人が完全に足を踏み込むよう説得する。

1番Aメロを歌うYU-KI(大谷悠妃)

無心とは無邪気、純真とも言い換えられる。

私は初め、これを演技力と評価しようとした。

しかしYU-KIの場合、演じるというより、余計な考えや雑念を捨ててやり切る、もしくは初めから疑わない、それが結果として聴衆を作品の世界観に引き込む表現力となっているように思えた。

YU-KIが女優やお芝居の道に進んだらぜひ見てみたいものである。


1番Bメロ

Bメロに入りENA(鈴木愛菜さん)、KIMIE(赤堀君江さん)とテンポよくアングルが変わる。

曲調もアップテンポな感じを受ける。

1番Bメロを歌うENA(鈴木愛菜)

1番Bメロを歌うKIMIE(赤堀君江)

この二人はちょっと面白い。

二人はカミングフレーバーの中でも特別幼く見える容姿と歌声を持つ。

だからこんな廃屋にいること自体が不自然に感じてしまう。

そしてこの違和感が面白い働きをする。

「お嬢ちゃんたち、こんなところにいないで早く家にお帰りなさい」と。

いい意味で不気味さを感じさせるエッセンスになっている。

例えばロールプレイングゲームでダンジョンをさまよっていたら、可愛い女の子二人からハイテンションで絡まれ突然戦闘に入る。

そして子どもだと持って舐めプしたらめっちゃくちゃ強くて全滅した、とか。

普段は"えなきみ"と呼ばれる純朴な仲良しコンビであるが、こういう呪文のような歌詞を歌わせると声質も相まってサイコパス感が出ていい。

視覚的にも聴覚的にもそのミスマッチ感を楽しめるとよい。

そのあとAIRI(中野愛理さん)、HINANOMIZUKI(田辺美月さん)と頼もしいお姉さん方が来てサビまで盛り上げていく。

HINANOの「狂い咲き」というワンフレーズ、1秒にも満たない短いパートだが、ここだけでも彼女の声に伸びがある印象を持つだろう。


1番サビ

1番のサビでは歌唱がユニゾンになる。

ロケーションは同じ廃屋だけれど光が差し込んで少し希望と勇気を感じることができる。

歌詞はAメロやBメロで使われていたような難しい言葉は一切出て来ず、鬱々とした雰囲気から一気にフラストレーションを開放する。

メンバーたちは楽曲全体にわたってポジションが入れ替わり、それをサポートするも素早く変わっていく。

だから、特にサビの広間で踊る彼女たちには何だかバレーボールの試合を見ているような気迫が感じられる。

コートで縦横無尽に移動し、チームメイトをカバーし、トスして打ち返す選手を見ているような、そんなチームワークとスリルとエキサイティングが存在するのだ。

歌割もポジションも決まっているのに剣術は殺陣のごとく、見ている側がその場でアドリブを見ているような迫力が生きている。


ユニゾンによるサビ


間奏

間奏ではメンバーの歌にエフェクトを強くかけたうえ、発声を細かく切り取ったものをつなぎ合わせる継ぎ接ぎのような作りになっている部分がある。

ボカロ曲でも流行ったカットアップ(ボーカルチョップ)だ。

以前もメンバーの雑談や掛け声を楽し気に合成した「We are カミフレ!!!!!!!」の間奏があったが、今回は何を言っているのか聞き取れないレベルの加工である。

もちろん"にゃんにゃん"とかはない。


間奏前半ではブレスを効果音として使用する面白いアイデアを見せてくれる。

しかもここから8小節に渡って4拍子から3拍子に変わっている。

何とこの曲は変拍子なのだ。

この楽曲を聴いて1番驚いたところかもしれない。

変拍子と言えば、米津玄師や赤い公園、チャットモンチーの「シャングリラ」、ドリームシアターなどのプログレッシブメタル、ゲーム音楽で言えばドラクエやFFで聴くことができる。

変拍子自体、特段難しい技術ではないのだが普通は入れようと思わない。

一言で言えばマニアックだし、かなり凝っている印象だ。

カメラワーク、照明、ダンスなど、第一印象から力を入れているとは思っていたが、本当に作り手の技術と好奇心が存分に盛り込まれたクリエイターたちも挑戦できる作品だと感じた。

4拍子から3拍子への変拍子

変拍子がここに組み込まれた意味は何か。

ここからは私の独善的な妄想になる。


不安定なリズムが忌避されてきた時代があった。

なぜなら音楽とは権威であり秩序であったからだ。

聴衆はその一定のリズムに酔いしれることによって社会的にも宗教的にも合法的な快楽を得ていたといえる。

しかし近代になるとロシアの作曲家ストラヴィンスキーが「春の祭典」(1913)で本来音楽からもらえる快楽を否定し、聴衆の"お客様"としての自惚れをくじいた。

そこに見えるのは変革、革命、挑戦である。

「聴衆よ、これでも着いて来られるか」と言わんばかりの媚びない姿勢である。

変拍子が一種の毒であるとすれば、ある意味どんなに変貌しても着いて来られる耐性を時限的に私たちに植えつけていたことになる。

音楽は人に利用され人の下に位置していたものから、対等かそれ以上の存在になることを主張した。

音楽は人間による従僕の枷を取り払って、かえって主人となったのだ。


「カメリア」の場合はどうか。

彼女たちカミングフレーバーは私たち聴衆を挑発しているわけではない。

しかしそこには「今までの私たちとは違う」という主張が見えなくもない。

それが音楽のコンセプトの一部だということはあり得る。

さらにこの楽曲に変拍子が使われたことは、ストーリーとしてはどのような働きをしているだろうか。

3拍子が繰り返される間、彼女たちは何かと波長を合わせるための準備期間にいる印象を受ける。

過去を振り返っているようでもあり、自分を見つめなおしているようでもある。

誰かを待っているようでもあり、何かを探しているようでもある。

花と言えば、種の落ちる場所か、咲き誇る場所か、そこに行きつくまでの一歩がまだ足りないようなのだ。

それを表す4拍子から1つ欠けた3拍子だと私は受け取った。

そして適切な場所を見つけるや否や秘められた力を展開し、みるみるその姿を美しき完成形へと変えていく。

狙いを定めていたターゲットをロックオンするや否や、持てるすべての力を放出する。

それが4拍子に戻った間奏後半のスピーディーなダンスである。

スピーディーなダンスになって本領発揮

例えばヒーローが強敵を前にピンチに陥り、今の力では勝てないと膝をつく。

しかしその時、過去の記憶がよみがえってくる。

負けられない理由、もう一度戦う理由、家族や仲間、応援してくれている人たちの言葉、夢を語ったあの日を思い出す。

そして覚醒し、圧倒的な力で敵を粉砕。

これは少年漫画でもよくあるシーンだ。

だから私の見方では、楽曲2番からの彼女たちは一段階パワーアップした、覚醒した彼女たちなのである。

もう半端な攻撃は受け付けない。

ほぼ無敵状態、ということである。

無敵状態


2番Aメロ・Bメロ

ここからの映像演出は1番と同様サビまでワンカットである。

2番のAメロは1番のAメロにエコーのかかったピアノとシンセサイザーが追加された形となり神秘的な印象を強めている。

ここでまたあの二人組の登場である。

KIMIEENA

KIMIEの余裕がうかがえる表情から急に真顔になるところ、真顔になってストンと下に落ちるところ、そしてそこまでギリギリ引き付ける間のとり方が素晴らしい。

大人ながらに恐怖と不安を感じさせる。

何か決定的な過ちを犯し、怒らせてはならないものを怒らせてしまった感覚である。

KIMIEといえば最近ゾンビのマネにはまっているようだがこうしたサイコホラー系統もなかなか上手いのではと思った。

2番Aメロでミステリアスに表れるKIMIE(赤堀君江)

2番Aメロで柔らかい表情をするKIMIE(赤堀君江)

2番Aメロで急に真顔になる怖いKIMIE(赤堀君江)

2番Aメロで入れ替わるKIMIE(赤堀君江)とENA(鈴木愛菜)


2番Aメロで口角を上げるENA(鈴木愛菜)

2番Aメロでほほ笑むENA(鈴木愛菜)

その後、逆にENAが真顔からだんだん微笑んで後ずさっていき、その間にぎこちなく口角を上げるところも素晴らしい。

KIMIEが残していったミステリアスを徐々にひも解いてくれる存在でもある。

私の見立てでは、ENA緊張感に耐性のある特質を持つ少女である。

自分も緊張しにくいし、相手にも緊張を与えない。

YU-KIが一声で場の雰囲気を変える(もしくは伝える)ムードメーカーならENAはライブや人間関係において仲間や周囲の人たちの緊張を和らげるアイスブレーカーといえるだろう。

次にMIYOYU-KIが登場する。

ここにこの二人組を使った意味を私なりに解釈する。

それはサビの前哨戦であるAメロBメロは概ねMIYOYU-KIペアとKIMIEENAペアの対比を楽しむ場所ということである。

つまり前者の二人は年齢はともかく声は艶っぽく大人っぽい性質を持つ。

対して後者の二人は淡々としていて幼い声質である。

2番Bメロで現れる大人っぽいMIYOとYU-KI(野村実代と大谷悠妃)

2番Bメロで歌うMIYOとYU-KI(野村実代と大谷悠妃)

2番Bメロで前に出るMIYO&YU-KI(野村実代と大谷悠妃)

1番では大人から子どもへ、2番では子どもから(Bメロのユニゾンを超えて)大人にバトンタッチしているという運びである。

これがこの曲のコントラストをよりはっきりさせ、HINANOの力強いボーカルまで退屈させない作りになっている。


以前、MIYOが「カミフレは声のバランスがいい」と言っていたことを思い出してほしい。

私のカミングフレーバーに対する評価は全体的に彼女のこの言葉の影響を広く受けている。

彼女の言葉は、それが適当かどうか審議する材料というよりも、カミングフレーバーの楽曲を構成する基本的なアピールポイントになっていると申し上げておきたい。


2番サビ

落ちてくる水の塊をHINANOがこぶしで殴る映像を挟んで2番のサビへ入る。

ここから彼女の朗々とした歌声が響き渡るわけである。

声帯がよく開いていて清々しさを感じる。

いわゆる勝ち確に入った瞬間である。

2番サビを熱唱するHINANO(青海ひな乃)

次にAIRIがサビの続きを歌う。

彼女は他の楽曲でも曲の一番盛り上がる高音を裏声なしで歌うことができる。

これがライブで決まったときのインパクトは絶大だ。

「100万リットルの涙」でもそうだった。

もちろん声質のせいでもあり、訓練のたまもののためでもある。

そうはいってもライブでは緊張でのどが渇いてくる。

声が枯れることもある。

疲れた声帯をかばいたくもなる。

最後の矢は彼女に託されているということだ。

彼女の歌が何にもまして心に刺さるのは、大舞台の最高潮の時でも全力で歌い切ることを選べる勇気があるからに違いない。

2番サビで通り過ぎるAIRI(中野愛理)

それはそうと、後方から迫るAIRIが掌で光を遮りながら横切っていくシーン。

ここは彼女の魅力をより理解するのを助ける演出家からのサービスか?と思えてしまう。

もしAIRIと私生活で出会える立場であったら、大学でもオフィスでも街角でもいい。

彼女を目で追いたくもなる。

しかし彼女は気にも留めずスタスタと歩いて通り過ぎていくのだろう。

それが普通なのに、彼女に目を向けるとなんと彼女の方から目を合わせてきたという思いもよらぬ展開に・・・。

そうして心が揺らいだ時を再現してくれているような映像だ。

MVはファンタジックでありながら、ここだけ妙にリアリティーを感じさせるワンシーンである。


音楽が最高潮に盛り上がる中、MIZUKIが静かにこちらを見つめ、次にメンバーを分け入るようにセンターまで進み、苦悩とも懇願ともいえる表情に映るシーン。

一瞬ではあるが、彼女がセンターになるこの場面は、「かつてこの世界は、MIZUKIという乙女の祈りによって救われたのだ・・・」と言えるくらいドラマチックなシーンに出来上がっている。

「君が笑ってくれたらそれだけでいいよ」とMIZUKIは歌う。

まるで自分が犠牲になる運命だと気づき颯爽と前へ進み出るヒロインのようだ。

だがHINANOが彼女の覚悟に感づき、みんなでそれを引き留めたという流れにしておきたい。

2番サビで気づくMIZUKI(田辺美月)

2番サビで手を挙げるMIZUKI(田辺美月)

2番サビで胸に手を当てるMIZUKI(田辺美月)

2番サビでソロカットのMIZUKI(田辺美月)

2番サビでセンターになるMIZUKI(田辺美月)

2番サビでソロカットのHINANO(青海ひな乃)

2番サビで手を差し伸べるHINANO(青海ひな乃)

2番サビで手を指し返すMIZUKI(田辺美月)

2番サビで集結する

例えば映画で大事なのは、ワンシーンを切り取ったとき、それが絵画のような美術作品になることだと思っている。

「カメリア」のMVの一つ一つのシーンからカッコよさや、可憐さ、切なさが伝わってくる。

恐らくそれらの連続が、所感で申し上げた何かのストーリーの正体なのだろう。


曲全体の総括として、音源の成分としてはパーカッションが最も多く、次にストリングスが基礎となっているように思う。

この二つを基盤に、ピアノとシンセサイザーが部分的に使われている印象である。

ダークかつ非常に攻撃的な部分も垣間見えるが、ロックやメタルの特徴であるエレキギターは使われていない。


最後にMIYOは一人重そうな扉を開け、外の世界に出て行く。

エンディングで扉を開けるMIYO(野村実代)

エンディングで外に出て行くMIYO(野村実代)

エンディングで振り返るMIYO(野村実代)

エンディングで消えていくMIYO(野村実代)

"続き"を思わせるシーンである。

とてもドラマチックなMVであったから、この世界観でカミフレのドラマが始まってくれないかと思うほどである。

その願望は飛躍し過ぎであったとしても、カミフレがこれから始まり、もっと広い世界へ飛び出していくことを示唆しているようにも見える。

それが現実世界で起こるドラマであることは間違いないだろう。


ただ、ようやく外に出られるというのに振り返るMIYOの表情は何か物悲しい。

そして何も言わずに前へ進んでいく。

なぜ笑っていないのか、なぜ振り返ったのか。

外の世界は厳しいからか、思い出を惜しんでいるのか。

カミフレの覚悟の表れかもしれない。


歌詞には「振り返りはしない」とあるのに振り返っている。

「止まれない」と歌ったのに止まった。

なぜだろうか。

この矛盾をあえて説明するなら、このシーンのMIYOの振り返りは最後の振り返りであり、歌詞の「振り返りはしない」は心の中の決意として、その最後の振り返りの後に実行されるものであるとすれば特に問題はない。

ただ私はここを無理に捻じ曲げた解釈をもって擁護する必要もないと考える。

なぜならこの矛盾に深い意味はないと思われるからだ。

それよりも、たとえ歌詞とシーンとの間に矛盾が生じたとしても絶対に入れたい演出だったと解釈した方が自然だろう。

立ち止まって振り返ったのは、カミフレを応援している、もしくは視聴した私たちに対してであり、これからカミフレは進んでいくけれど、今までのようについてきてくれるだろうか、ついてきてください、という感情の現れを表現しているのだと受け取っている。


私にとって「カメリア」は想像力を掻き立てられる刺激的な作品であった。

そうはいっても私の推測が製作者の意図やカミフレのメンバーが表現したいことと合致しているものはほぼないと断言できる。

それだけイメージの世界というのは広大だ。

それは次に考察する歌と歌詞についても同様である。

楽曲についての明確な狙いや隠し要素があれば、これからメンバーの配信やインタビュー記事の中でお話が聞けることもあるかもしれない。

その場合、私は自分の妄想を否定されないホメオスタシスの殻に閉じこもってこっそり外を覗くことにする。

カミフレの「おいてけぼり」でも聴きながら・・・。

3.歌についての批評

歌の技術に関しては個々に評価するべきであり、このMVに限ったことではないのでここで詳しく述べることはしない。

ただ総合的かつ簡単な批評をするならば、メンバー一人ひとりが自分の声を大切にしている印象を持つ。

歌が上手いAIRI(中野愛理)

1番のAメロ・Bメロでそれぞれソロの部分があるので聞き取りやすいと思う。

低音の部分だから特に地声の特徴がそのまま出ている。

個人的にはこの地声をベースにした路線を貫いてほしいと思っている。

歌声を極端に変えること、つまり特徴を出すためにアニメ声にしたり、カラオケ番組で見られるものまね的な上手さもいいが、全員がそうでなくてもいい。

またボカロのカバーやボカロ調の歌い手などが昨今の流行であるがそれらに追随していく必要もないと思っている。

そのような歌い方は歌を上手く見せる即効性があり、技術の一つではあるけれども歌い手本来の個性かと言われると疑問符が残る。

むしろ本当の姿を隠す厚化粧のようなものであって、自家製のエフェクトという側面が否めないからだ。

歌手の主戦場が村のお祭りだった時代、宮殿の大広間だった時代、オペラのような大舞台だった時代、そしてマイクが発達してレコーディングスタジオになった時代、またDTMやEDMのようにデジタルになった時代、その時々に合わせて歌声のトレンドというのは変わっていく。

マイクとスピーカーが発達した時代、ビング・クロスビーがささやき声を特徴とするクルーナー・スタイルを確立したといわれている。(1930年代)

そのころから個人の声が尊重されるようになってきたのではないだろうか。

面白いことにビリー・アイリッシュがミュージックステーションでパフォーマンスをしたとき、「腹から声を出せ」などの批判が相次いだらしい。(これは主にネット掲示板特有の不満や批判的な評価だと推測する)

彼女はもともと「ささやくような声」と評された歌手であった。

だから批判についてこう反論する人たちもいた。

  • (特に日本において)歌い上げないボーカルは批判される
  • パフォーマンスは歌が上手いことがすべてではない
  • 素人のカラオケ番組が人気を博している日本では叩かれやすい土壌にある
  • ビリー・アイリッシュは日本の歌唱力至上主義に反抗してわざとやる気のなさを誇張した疑いがある

日本が歌唱力至上主義になりやすい原因は日本人にもともと力強い発声をできる人が少ないため憧れを抱きやすいことや、頑張る姿に美徳を感じる国民性があるかもしれない。

が、ここは日本だという声が聞こえてきそうでもある。

もちろん彼女も一癖ある歌手であるから一概に参考にできない部分はある。

YouTubeが主戦場の彼女にとって取り囲むファンが第一であるし、何より個性的でなければならない。

彼女にとって売れるとは大衆に受け入れられることではなく、誰よりも唯一無二の自分が目立つことによって少数派に気づいてもらうことだろう。

そして少数派の団結は無防備な大衆を圧倒する。

世の中の流行に簡単になびいていく大衆の習性は、寄り集まった少数派の大群にあっという間に飲み込まれてしまうということだ。

ただ、歌い方について考えてみると、この「ささやくような声」も大昔であれば欧米でも叩かれ追い出されたのではないかと思うのだ。

そこで前述した変拍子の件を思い出してほしい。

昔は拍子云々で演者と聴衆は戦った。

そして今は歌い方で戦っている。

慣習か個性か。

つまり一見ではわからないが、指紋のように二人とない自分の声の特性をどれだけ相手にわかってもらえるかが価値とされてきているようだ。

それが障壁にもなれば踏み台にもなる。

歌が上手いとは何か。

それは偏に感動させられるかであるが、それが声量なのか、音程なのか、声質なのか、発音なのか、

はたまたビジュアルなのか、キャラなのか、言語なのか、ストーリーなのか、それは受け取る側によって千差万別である。

こればかりは個々人の持つ印象の問題であるからここで述べたような理屈で説き伏せることはできまい。

実行あるのみだ。

彼女たちがダンスを武器にしている以上、歌がおろそかになることをダンスのせいにはできないだろう。

歌も大事な要素の一つになる。

トレンドを意識しながらも、いかに自分の特性を伝える工夫ができるかが彼女たちの活路となっていくかもしれない。

ただ、それはもちろん個性を出すために"ソファーに寝転がって歌う"ということでいいのかと言ったら難しいところだが・・・。

いや、最後のはHINANOのことではなくビリー・アイリッシュのことである。


さて、カミフレの歌声を私なりに簡単に評価すると、


  • MIYOの歌声は表情があってわかりやすい。アニメチックと言えば彼女がそれに近く昨今の日本のトレンドを内包する形になっている。特に今回は第一印象を与える出だしとして適役だと言えよう。
  • 「We are カミフレ!!!!!!!」でも謳われている通りハツラツとしたバネのあるHINANOの歌声はここぞというときの切り札だ。歌の上手さが分かりやすく目立つ存在、まさにエースストライカーのような存在である。
  • カミフレが"こっち"路線に転じても、アイドル性と可愛い女の子を絶対に捨てないAIRIの歌声。一皮むけても、二皮むけても、「カメリア」みたいな別世界に3年漬かってもそこには変わらない乙女がいることだろう。
  • 通常おっとりしたMIZUKIの、高音になるにつれてヒスに豹変するギャップを持った歌声は眠った感性を目覚めさせる美しきルナティックである。
  • KIMIEのミステリアスな声は、この歌にはもしかしてもっと深い意味が?と立ち止まらせリピートを促す。
  • 大人の女性の色っぽさを持っているのは意外にも年齢の若いYU-KIの歌声だ。
  • ENA物おじしない芯のある声でアットホームというべきか、いや友情を感じさせる温かみがあるといった方がいいかもしれない。彼女は録音と生歌に差が出ない安定感を備えているように思える。


そしてこの7人がユニゾンを歌うと、音階は一緒なのに綺麗なハーモニーに聞こえる。

もし7人の内、誰かと誰かの声質が同じだったら、ユニゾンになった時その二人の声がカミフレの声になってしまうだろう。

つまり同質の二人の声が自然と大きく反映され、他の一人ずつの声をかき消してしまう恐れがあるということだ。

オーケストラでバイオリンを何人も配置するのは、バイオリンの音圧を上げるためである。

チェロやビオラの音色を大きくしたければそれらを増やす。

音量を全体的に上げたければ、強く弾かせるのではなく人数を増やして調整するということである。

だから奇跡的とでもいうのか、逆に7人に同質の声がないことがユニットとしては幸いしている。

彼女たちの声がそれぞれ違うことでソロパートを歌えばコンチェルト(協奏曲)のように多様性が生まれ、ユニゾンを歌えばシンフォニー(交響曲)のように調和が生まれている。

その辺は熱心なファンの方が熟知していて、非常に多種多様な評価をしているようだ。

とはいえ表面的で素直な意見も認知度が広がっている証拠として喜ぶ心の余裕は持ちたいと自分を戒める今日この頃である。

カミングフレーバーの魅力は、メンバーの特性、そしてライブや練習時間、人間関係の上で成り立っている面白さであることを改めて認識させられる。


私が気になるのは今後カミングフレーバーは、今作のように引き続きHINANOの強力なボーカルを前面に展開し、他のメンバーは各々の個性をそれぞれ別の方向性で盛り込んでいく形を保つのか、

それとも初単独ライブでそれぞれがセンターを務めたようにカミングフレーバーのメンバーを一人ずつ強調した楽曲を作っていくのかであり、それならば次は誰かというところである。

そうなると一人ひとりがフィーチャーされる場合、今回の「カメリア」の主役はMIYOなのか、それともHINANOなのかというところは押さえておきたい気もする。

もちろんどの楽曲においてもカミングフレーバーは一人ひとりが主役であることはわかっている。

今作でも入れ代わり立ち代わり、全員がセンターを務める形になっている通りだ。

しかし作品としての核となる人物はやはりあるのではないかとも考えられる。

果たしてMIYOが冒頭と最後に出演したのは彼女が主役だからなのかそれともリーダーだからなのか。

はたまたHINANOに水を殴る特別なワンカットが入り、サビを担当させたのは、彼女が主役だからなのか、それとも歌唱力を買われてなのか。

メンバーには一人ひとりに固有の色が与えられている。

今回の楽曲は「カメリア」。

カメリアは椿。

椿といえば赤である。

他にピンクや白もあるがメンバーにはいない。

とすれば今後もシングルにおいて楽曲は色にちなんだものにするのか。

すなわち青や紫、黒や黄色、オレンジや水色のものを題材にした楽曲が出てくるのか。

この線で行くとやはり「カメリア」とはMIYOのこと。

もしくはMIYOから見た世界。

そして今回の主役ないし主人公はMIYOということになるといえるだろう。

赤い椿を近くで写したもの

4.歌詞についての批評

ここで話を歌詞の評価に移したい。

歌詞の「君がため」は少し古風な言い回しで悲壮感がある。

少し思い出されるのが一世を風靡した「千本桜」はじめボカロ曲の類、悲壮感については「魔法少女まどか☆マギカ」の主題歌となった「コネクト」や「magia」にも似ている。

そういえば後者二つの楽曲はタイトルが歌詞に使われないタイプである。

この手法もまた珍しい部類だ。

タイトルが歌詞に使われない曲の印象としては、タイトルの言葉が楽曲作成の足掛かりになっている名残りか、もしくはタイトルの意味を楽曲全体を使って説明するといった試みが見られていると感じる。

すなわち、「コネクト」とは何か、「magia」とは何かを、歌詞と音楽を使って表現するのである。

とはいえ、聴き手によってさまざまな解釈が生まれるのだからかえってそれらを定義する余地はなくなり、むしろ沢山の感情と思考が語り継がれて、ついにタイトルの言葉は生き物のように作者の手を離れてしまう。

ご存じの通り「カメリア」もタイトルが歌詞に出てこないタイプである。(もしあのエフェクトをかけた間奏にあるとしたら話は別だが)

そこで「カメリア」とは何か、を私も議論したくなったのである。

まずカメリアの花言葉などを調べてみた。

日本での花言葉は「控えめな優しさ」、「誇り」である。

そして色別にも花言葉はついている。(詳しくは引用URLを参照いただきたい)

西洋では「admiration(敬愛、感嘆)」、「perfection(完全、完璧)」、赤いカメリアについては「あなたは私の胸の中で炎のように輝く」など情熱的なものもある。

椿の花言葉(赤、白、ピンク)誕生花や英語も | 花言葉-由来 (hananokotoba.com)

ただ、歌詞と見比べてみるとあまり強い結びつきは見られない。

赤椿は1月27日の誕生花、意味に「生来の価値」とあったり、

18世紀、修道士カメルによって女王マリア・テレジアに渡ったカメリアがその夫の憂うつ症を治したという逸話があったりと少し近づいた感じもあるが決定的ではない。。

椿(ツバキ・カメリア)の花言葉|花の意味と対応する誕生日・誕生花・あなたの性格 | Timeless Edition (timeless-edition.com)

作詞については私はあまり元来の意味にこだわらなかったと考えている。

かといって検索結果のSEO対策に取って付けたなどとさみしいことは言わずもう少し考えてみたい。

歌詞にカメリアを隠喩するものがあるとすれば「狂い咲き」「重ねた絆」の二つくらいだろう。

ちなみにMVでもカメリアらしき画像は出て来ない。

以下のカメリアの画像はフリー画像から拝借したものである。

花やつぼみが見える椿

しかしカメリアの生態を調べてみると歌詞にある物語は何となくそれに近いことがわかる。

冬、カメリア(椿)を見るとわかるが一つの木に花が群生している。

"木"であることも重要である。

木に咲く花はほとんどが同時に開花する。

しかしカメリアの場合は例えば桜のようにすべてが同時期に開花するのではなく、時間差を置いて個々に開花していく。

つまり大きく奇麗に咲いていると思いきや隣にはつぼみも沢山あるし、すでにしおれたり枯れ落ちているものもある。

1拍ずらしのカノン(ドミノ)椿を表現する

ダンスでは全員で一つの花を作るところもあれば、一人一人が両手で自分の花を作るところもある(デフラワー)。

後者の場合は、ドミノ(一拍ずつずらすカノン)を使い、次々と花が地面に落ちるような所作となっている。

それを踏まえると、

「身を粉にしても報われない未来」

「皆々己事に執着」

「生き様」

「君がために一人きりでも僕らは進んでゆくんだ」

「今ゆっくりとこの手を切り離してゆく」

「今違う世界線を歩き出してゆく」

などの歌詞はカメリアの様子を表現しているといえる。

またカメリアは花の落ちる様子が儚くもあり、厳しい冬の寒さの中で可憐に咲くことから、この楽曲の悲壮感の中の逞しさをよく表しているともいえる。

地面に落ちた椿の花

この曲には別れを連想させる危うさがなくもないが、真意は新たなる始まりであると信じたい。

植物のカメリアは成長はゆっくりで寿命が長いらしいので、カミングフレーバーにはそちらの特性にも似てもらいたいものである。

皆さんにとっての「カメリア」とは何か、ぜひお聞かせいただきたい。

5.カミングフレーバーの今後について

寿命云々についていえばカミングフレーバーはこれまで2人が活動から離脱している。

だから新衣装ではAIRIのスカートの裏地が一瞬ピンクに見えたり、YU-KIのスカートの裏地が明るいイエローで表がっぽく映って見えたのは、光の加減と偶然と、私のちょっとした思い入れのせいだ。

しかしそれが彼女たちSKE48のドラフト3期生のメンバーに起こっているのがなんだか嬉しい。

光の加減でYU-KI(大谷悠妃)の衣装が西満里奈さんのカラーだった緑に見えるときがある

光の加減でAIRI(中野愛理)の衣装が平田詩奈さんのピンクに見えるときがある

かの二人は、カミングフレーバーがここまで進むのになくてはならなかった功労者であり仲間であった。

「カメリア」を聴いていると自然と彼女たちのことも思い出す。

時々、話題に上がったりもするからきっと見えないところでカミフレとメンバーたちを支えてくれているのだろう。


彼女たち二人が活動から離れた時、カミングフレーバーの新規加入はないと、以前メンバーたちの配信で明言された。

これはおそらくマネージャーか運営からの受け売りなのではないかと思っている。

上からそのように言われているから彼女たちは責任感の伴った愛着も沸いているのだろう。

彼女たちからはカミングフレーバーを自分たちで守り育てていかなければいけないという緊張感と責任感がひしひしと伝わってくるのだ。

カミフレの形態はももいろクローバーZと似ているところもある。

少人数ユニットとして参考にしているかもしれないし、戦略的に必然と似通る場合もある。

期別制は48グループでは当たり前であるし、少人数ユニットでもSUPER☆GiRLSのように使っているところもあるから今後どのようになっていくか気になるという意見は内外から出ていたのだろう。

補充の意見にはパフォーマンス強化のためと人数の確保の二つの主旨が見られる。

無論、どちらもカミングフレーバーに対して好意的な意見であることは間違いない。

昨今の彼女たちの成長ぶりと変化を見ると、さらなる活躍に効果的な一手を投じる気持ちが生まれても不思議なことではない。

(私個人の見方ではもし強いて新規加入の議論をするのであれば、それはメンバーたちが精いっぱい活躍し、成長を経た後、カミングフレーバーを残したいという思いがファンとメンバーの中に自然に生まれた時、初めて馴染んでいくのではないかと考える)


しかしそれでもなお彼女たちを静かに見守りたい理由が三つある。

一つは人材の発掘が困難という直接的かつ現実的な問題である。

アイドルを安定的に続けられるだけでもかなり数は限られるし、それをスタッフがオーディションで見抜くことも困難である。

二つ目はカミングフレーバーの機能が、小回りの利く少人数ユニットでメンバーの活躍の場を増やし、本来のアイドル活動を充実させる意味を持っていることである。

表向き、もしくは目的としてSKE48を広めるアンバサダー的な側面があるにせよ上記の実質的な機能を利益と考えるならば新規加入を許すことでこの戦略がぶれることになる。

そして三つ目だが、これは概念的な話である。

現在のカミングフレーバーの人材とこれまでの進歩は偶然の産物と言ってもいい。

もちろん彼女たちは運営が期待して選び抜いた人たちであるし、努力や計画が実を結んだことは間違いない。

しかしそれは他のグループやユニットでも同じだったはずだ。

そのようにスタッフたちがいつも選りすぐりの人選で作っては消えていった多くのユニットの中で残ったものを今、私たちは応援しているという考え方もできる。

それなら彼女たち個人の成長を見守った方がリスクは少ないのではないかと思うのだ。


ここにきてもう一つ大切なことがあった。

いや最も大切なことだ。

それは私たちのカミングフレーバーを応援する優先順位が、きれいな歌声や完璧なダンス、先鋭的なMVを視聴することではなく、メンバー一人一人に向いていることである。


上手な歌が聞きたければオペラ歌手がいいだろう。

ダンスが見たければワールドオブダンス・チャンピオンシップがアメリカで開催されているらしい。

綺麗な映像が見たければNHKBSプレミアムの「体感!グレートネイチャー」がおすすめである。

しかし、卓越したオペラ歌手にも表現できないものがある。

プロのダンストレーナーでも伝えられないものがある。

完成された大自然でさえ私たちを飽きさせる時がある。


私たちはカミングフレーバーなど知らなかった。

彼女たちのだれかのファンになるまでは。

彼女たちに目を向けるまで、

私たちはまだカミングフレーバーを知らない。


彼女たちの歌やダンスが前よりも上手くなり、応援の量に応じて衣装やMVが洗練されていくそのさまに私たちは喜びを覚えるのだと思う。

全員でカノンダンス(ドミノ)を使って椿を表現する。

6.カミングフレーバーに対する率直な思い

この「カメリア」を初披露したのはAyakarnival2021であった。

観客が生で見守るライブである。

暗転し重厚なサウンドに合わせカミングフレーバーが一つとなって冬の景色を彩るカメリアを表現する。

これまでとのイメージとのギャップを計るセットリストとしての構成も、彼女たちの演技力も、そして発売する時期も申し分ない。

しかし一つだけ気になるところがあった。

このライブでは生歌で披露できなかったことである。

カミングフレーバーはこれまでAyakarnivalにおいて終始録音素材を使用しての楽曲披露はなかった。

サビ等で被せを使うことはあったかもしれないが、激しいダンスと生歌で頑張っている姿が観客の心をつかんできた。

汗まみれになって息切れを抑えきれず、そして倒れるんじゃないかと心配されながらもほとんど休憩なしでパフォーマンスを完遂させたことに称賛の声があったのだ。

テレビ番組の安定性を重視する構成のために止むを得ず録音音源を使い、せめてダンスだけでもきれいに披露しようとするアイドル界隈の不自由さをこうして打ち壊してくれた。

名前が売れその知名度だけが先行するようになった大手アイドルの、過去の栄光と楽曲ありきのイメージを一新してくれた場面でもあった。

例えるなら、かつては身分の低い貴族から皇帝へと上り詰め英雄と称賛されながらも列強国の台頭と保身、諸国民の反感と共に没落していくナポレオンにもう一度再起のチャンスを与えたパリへの帰還と言ってもいい。

もしくはナポレオン3世か。

ただAyakarnival2021では生歌を隠した形となった。

これが常態化してしまうのであれば、あのダイヤモンドの原石を削るような熱い声援とは別の場所に行ってしまうのではないかという寂しさがある。

しかし主催者あーりんこと佐々木彩夏さんの所属するももいろクローバーZのファンらしき方々も、他のアイドルユニットのファンの方々も、そしてカミングフレーバーのファンの方々も一様に理解を示していた様子がコメントではうかがえたことは記憶に残しておきたい。

コメントに見られたのは「準備が間に合わなかったのでは」との憶測である。

私なりに調べてみると、ほとんどのアイドルユニットは音源での披露を経験してきたし、逆に生歌で披露した時の批判も被ってきたようだった。

そしてファンの声は批判を全否定するものではなく「私たちは彼女たちの成長を楽しんでいる」という至極まっとうかつ賢明な返答であった。

そうすると歌の上手い下手や、録音を使うことなどで安易に批判はできないし、何か事情があるかもしれないと見識の幅を持たせておいた方がいいことは、アイドルファン界隈では共通認識を持っているのかもしれない。

調子づいて飛躍した憶測をしてみるなら、この件は音楽番組に売り込むためのプロモーション用の映像が欲しかったと思ってみたりもする。

音楽番組となれば、メンバーやカミフレ関係者側の一存で、生歌か音源かを決めることはできないだろう。

録音バージョンのパフォーマンス映像も必要になる。


カミングフレーバーは初めのavexと秋元康氏によるプロモーションはあったものの、衣装からライブ、MVまで自給自足の実直な成長を遂げている。

SKE48からの借り物の衣装から、ライブを重ねるごとに独自性の強いものに変化した。

ライブは単独ライブまでできるようになった。

SUPER☆GiRLSとの対バンでは、大人数で踊る48グループのダンスに対して、一人一人に役回りのある、アトラクションのツアーガイドのような少人数用ダンスを見せつけられ、表現力の限界を感じさせる部分もあったがカミフレのミニアルバムからはそこもしっかりと補完してきた。

MVは過去の練習・レコーディング風景の編集から、スタジオを借りて作るまでになった。

MIYOの「カミフレはいつもギリギリ」という言葉の意味するところだ。

恐らくイベントが成功すれば次がある。

しかし失敗すれば終わりに近づく。

一度の損失が存続を危うくすることもあったのだろう。

予算的に言えばSKE48とは別枠になっているのではないかと思うし、貯金はなく次のイベントに全力投資するスタイルであると思われる。(この辺はカミフレのメンバーたちの金銭感覚と似てなくもないような・・・。誰々とは言わないが...)

これまで48グループは限定的なバブル経済を作り出し、それは積極投資のお手本のようなビジネスモデルだった。

しかしカミフレはそこから一歩離れ、自分の現在持っている分だけで活動する消極投資の方策をとっているのではないだろうか。

そして消極投資型の全力投資で前進する。

それはインディーズ時代のAKB48までさかのぼる原点回帰ともいえるかもしれない。

そしてこの手法で生き残ることができるなら母体のSKE48も同じく存続可能ということだ。

そんな綱渡りの活動をしながら2021年末、カミングフレーバーはこのMVと共に1stシングルまでこぎつけた。

カミフレにとっていつも「今」が一番大事なのだ。

まだ予断を許さない。

予断を許さないが、今カミフレはファンの応援が目に見える形で成長につながる面白い時期であることは間違いないだろう。

カミングフレーバー見参!

7.この世界にはヒーローとアイドルが必要だ

あれは確か初単独ライブを観た後のことだった。

メンバー一人ひとりが懸命に歌って踊る姿に胸打たれ、私はTwitterでこんなメッセージを投稿した。


僕達人間は感動を忘れると,言葉さえ通じなくなってしまうもろい存在です。

昨晩は歌とダンスを観て沢山の気持ちを頂きました。

このモノトーンの世界に夢と可能性の色を取り戻すため,皆さんは強く鮮やかに変身(成長)していくんですね^^


ヒーローとは何か?

端的に言えば、それは自分と同じ価値観を持った自分を超越した存在である。

だから強さと正義をイコールで結んだアメリカンヒーローはその代表格となった。

日本では、災害のような人知で手に負えない脅威に光の巨人が対抗した。

誘拐事件やその他凶悪犯罪が社会を震撼させたとき、バイクで颯爽と駆けつける勇者が子どもたちを守ると約束してくれた。

イジメや仲間外れがクローズアップされる中、多彩な戦士たちが手を取り合う姿を示し仲間の輪を広げた。

少年漫画や少女漫画、そしてアニメにもヒーロー像を持つキャラクターが人々の憧れとなっている。

彼ら、彼女たちは時に厳しく突き放すことはあっても決して私たちを裏切ることはなかった。

自分を遥かに超越していても、ちっぽけに思える自分と同化できる存在、それがヒーローだ。

そして外の世界は恐くても、守ってくれる存在があることを一度でもイメージした私たちは、現実の世界で確かにそのヒーローたちからもらった勇気を実行している。

イントロのMIZUKI(田辺美月)

科学・医学の発展により"人間"が強くなったヒューマニズムとマテリアリズムが伸長する現代の潮流ではどうか。

ヒーローはより人間らしく、より身近な存在に。

時に人間に頼り、時に助け合い、時にその力を人間に託すようになった。

そうだ、人間らしさにこそヒーローは存在する。

そしてそれは人間をして人間を集約し得るアイドルという存在がヒーローの持つ力の一端を担う時を意味するのかもしれない。

私はこのMVのような世界観を見る前からなぜかカミフレには戦うヒーローイズムを感じていた。

カミフレがまさにアイドルといったSKE48のカワイイ・元気・乙女チックな楽曲を披露していた時からそうだ。

戦隊もののように色分けされているというのももしかしたらどこかにあるかもしれない。

しかし、それよりもはっきりしていることが二つある。

一つ目は、彼女たちが人々の心を開こうとしている必死さである。

必死さが見えるAIRI

これは決してファンの人たちの心が閉じているといっているわけではない。

ただカミフレは観客に感動してもらおうと必死に"戦っている"のである。

ヒーローには平和を脅かす敵対者がいる。

カミフレにとっての敵とは何か。

先ほどのヒーロー≒アイドルの図式から、ヒューマニズムとマテリアリズムの敵とは何かと言い換えてもいい。

それはまさにアイドルとして、人々を無関心・無感動へ引きずり込もうとするのこの世界の法則のようなものに対してであると思う。

世の中には楽しいこともあれば悲しいこともある。

私たちはコンピュータや機械ではない。

人々は愛情やぬくもりを渇望しながらそれを得られず、もしくは刺激的なものばかり追い求めてやがて裏切りと挫折により繊細な感性を失っていく。

昆虫が触角を折られて仲間を認識できなくなるように、人は感動しなくなれば意思の疎通ができなくなってしまう。

コミュニケーションにおいて重要なのは言葉であるようで言葉ではないのだ。

どんなに多くの人に囲まれても誰かが関心を向けてくれない限り、私たちは虚しさを振り払うことはできない。

佇むYU-KI(大谷悠妃)の横顔

そしてそれは思ったよりも簡単に起こっている。

私はカウンセラーやケアワーカーなどの専門職らでも限界を感じている現場を度々目にしてきた。

むしろ彼らの方が淡白にならざるを得ない危険性を背に働いているほどだ。

しかしながら人は感動すると、ほんの少しの言葉でも分かり合えるようになる。

むしろ言葉がなくても通じ合えるようになる。

カミフレが歌った後、観客らは称賛で通じ合うし、カミフレが踊った後、沈んでいく心、無表情になっていく寂しい心に、温かさと生きがいが戻ってくる。

それはカミフレとファンとの間にもあり、カミフレ同士、そしてファンとファンの間にも起こる。

人は人と出会い、再び人を人と見ることができるようになる。

自分の大切なものと相手の大切なものを同じように尊重できるようになる。

YU-KIの「みんなこんなにいい人たちだから、その素晴らしさを私以外にも」との言葉はまさにファンの安寧を願うヒーローイズムに他ならない。(SHOWROOM配信での発言:要約)

そういった優しい正義に触れて、

忘れてしまった自分の心、

透明になってしまった自分の感情、

これは寂しさ、これは悲しみ、これは怒り、これは無情とまたゆっくり自分を見つめられるようになれたらいい。

そしてそれが何なのか分かったら私たちは初めてHINANOみたいな強烈なパンチで、自分の心に巣食う不純物を捉えることができるのだ。

落ちてくる水の塊をパンチするHINANO(青海ひな乃)

それは目に見えない感情に彩りを加えて、歌という言語に変化させる彼女たちの力、

音楽という目に見えないものをダンスと豊かな表情で形あるものに変える彼女たちの能力なのかもしれない。

私たちは一度現実世界を離れ、彼女たちが見せる精神世界に逃避することにより、そこで伝わらない言語を捨てて伝わる非言語を手に入れるに至るのだ。


もう一つのヒーローイズムは、彼女たちが孤独の中にいることだ。

ヒーローとは孤独である。

どんなに名前を知られ、人々から称賛を浴びても、戦うのは自分たちである。

与えれば与えられるというギブアンドテイクの原則はこの世界の摂理ではない。

それは人類が長い歴史の中で大切だと気付いた[意識的な合意形成]の[無意識的な循環]である。

イントロで立ち上がるKIMIE(赤堀君江)

「笛吹けども踊らず」

どこかで誰かの歯車が狂えばその合意形成は瞬く間に崩れ落ちる。

そしてそれを担保する法律も義務も存在しない。

彼女たちはステージ上ではアイドルでありながらそこにたどり着くまでは普通のか弱い人間だ。

ライブが始まるまで、CDを手にしてくれるまで、メッセージをくれるまで、会いに来てくれるまで、彼女たちの心境は孤独の中にあるだろう。(もしかしたらそれを払しょくするほどファンを信頼しているのかもしれないが)

間奏で何かをつかみ取るENA(鈴木愛菜)

ライブに観客が来てくれた時の彼女たちの喜びようと感謝は、彼女たちの置かれている厳しい心境を察するに余りある。

私たちが喜ぶように彼女たちも喜ぶし、私たちが傷つくように彼女たちも傷つくのだ。

だからカミフレが力を必要とするときは、私たちが彼女たちにとってのヒーローになる時なのかもしれない。

無論、その大半は名前も姿も経歴も、正体と功績をすぐには明かさない昔ながらの隠れたヒーローということなのかもしれないが。

この世界には大衆の孤独の中で、共に戦ってくれるヒーローとアイドルいる。

ヒーローチックなMIYO(野村実代)

これから迎える寒々とした冬景色の中で、カメリアは一層その鮮やかさを増すことだろう。

当面は街路に赤い花を見つければ、それが私にとっての儚きモニュメントである。

かえって春までの道しるべとなればいい。


躍動せよ、カミフレ!

再び歌い始めた我らの胸の高鳴りと共に。


カミングフレーバー公式サイト


SKE48・カミングフレーバーの大谷悠妃さんの心に残った言葉を大谷悠妃|ファンの安寧を祈るけがれなき小さな貴婦人として記事にしました。

あなたの推しがもし愛よりもお金を選んだら・・・。 【SKE48のへーきん!】結婚生活に愛よりもお金を選ぶアイドルたち でその心理を探ってみました。


椿の画像:
Annette MeyerによるPixabayからの画像
JackieLou DLによるPixabayからの画像
hugh SongによるPixabayからの画像

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