【コロナ禍】経済優先にしても自殺は防げないと思う理由

2021年12月30日木曜日

社会

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経済活動優先の行きつく先

各国による様々なコロナ対策

2020年から2021年まで、コロナ禍では目の前の命を最優先にした感染症対策か、私たちの生活を維持するための経済活動か、難しい局面に出会う場面がいくつもあった。

それは政治家たちが国家、都道府県レベルで規制を考えることでもあったが、私たち個人レベルでも起こりえた。

生産性が落ちる懸念のある在宅でのリモートを取り入れるか、それとも出社するか。

体調が優れない時にすぐに会社に報告して欠勤をとるか、それとも黙って出社するか。

ただ、経済力や職種によってはそれすら選べない状況の人もいただろう。

医療や介護職では非常に敏感になっていたし、会社からの補償がない人は無理をしてでも働かなければならないからだ。

ブラジルのように大統領が経済活動に前向きな国もあれば、アメリカやイギリスのようにロックダウンして感染の収束に努めた国もあった。

日本ではロックダウンは実施せず、自粛を促すばかりで緩やかな経済活動が続けられたという他国に比べればはっきりしない姿勢であった。

例えば日本では自粛要請に飲食店が大きな影響を受けたとはいえ、完全な休業ではなく、時短と少人数制が長く叫ばれ、損失の幾分かを国が補償する形となったが、アメリカでは店主が「やっと再開できる」と言ったことで今まで全く営業せずお店を存続できる徹底ぶりに驚いたものだった。

感染症対策も経済活動も目的は国民の安全な生活のため

そんな国による感染対策の違いの中で、日本では、感染症対策か経済活動かを評価するためのテーマがあったように思う。

そのテーマの一つが、自粛を伴う感染症対策を優先し、経済活動をないがしろにすれば、貧困問題から自殺者が増えるというものであり、新型コロナウイルス感染症による死者よりも自殺による死者の方が多くなるという懸念であった。

自殺を含め、自粛による健康被害が新型コロナウイルス感染症を上回る要素は確かに考えられる。

その最たるものが、新型コロナウイルス感染症患者を治療するための病床の確保だろう。

病院が新型コロナにかかりきりになり、他の疾病を見逃したり、診切れなくなったケースも実際に存在するようだ。

例えば癌の発見は健康診断や、他の疾病の検査で偶然見つかることもある。

ともすれば癌の早期発見ができず助かるべく命が助からないケースもないとは言えない。

また、今回のテーマである自殺についても、やはり困窮状態の悩みから自殺に追い込まれることも考えられるし、自粛によって人間関係が立たれ、相談できないことによる孤立から自殺を考える、もしくは自殺願望を察知されない場合が出てくることは考えられるのだ。

そしてそれが、新型コロナウイルス感染症による被害を上回るなら、経済活動にかじを切った方がいいという意見が出ることも理解できる。

ただ私の考えでは、経済活動を優先した場合、感染症による死者がどの程度増えるのかわからないが、仮に10倍増えたとして、その変化に日本経済は耐えられるのかという懸念が残っていると思われるのである。

私と身近な老人ホームでは新型コロナウイルスをただの風邪と言ってマスクをしなかった人が働いていた。

別の人がおそらくイベントでもらってきたウイルスをマスクをつけないで歩き回る人によって拡散され、従業員と利用者に感染。

利用者からは死者が出る形となった。

経済活動優先と言われても、老人ホームで働く人たちは自粛しなければならないと言われるかもしれないが、どちらにせよ市中感染が増えればその論も意味がない。

そして従業員からもし死者や後遺症による退職者が出れば、その老人ホームは経営が立ち行かなくなることも考えられる。

また、集中的な検査の連続で税金からの医療費はかさむことになるだろう。

老人ホームが経営破綻すれば、従業員は失業することになる。

また子ども父子家庭・母子家庭で育つことになり、貧困家庭のサイクルに入ってしまうかもしれない。

失職、貧困、孤立を伴うことになり、そこから自殺者が増える恐れもある。

また、この場合も国の支援が必要になる。

だから経済活動優先は、感染症に対しては経済困窮や自殺の数を後回しにした後手の政策になることも考えられないだろうか。

感染症対策優先は、現在の経済活動に相対する貧困問題と自殺問題の芽をこれ以上広げないための整備と言ってもいい。

つまり感染症対策は、経済活動の一環であり、経済活動を守るための方策ともいえるのである。

そしてその経済活動は私たちの健やかな生活のためであって、それに勝るものではないということを申し上げておきたい。

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