報道とSNSの倫理
■犯人の望むこと
2021年10月31日、京王線で起こった刺傷事件。
TwitterやYouTubeで犯人が発火させた火が車両内で燃え広がる様子や逃げ惑う人々の様子、そして犯行後シートに座って煙草を吸う犯人の映像などが流れた。
大手メディアがこぞって使用しているセンセーショナルな映像は、犯行現場に居合わせた一般人がスマホで撮影したものである。
最初は一般人がネットで揚げたものを大手メディアが使用しているのである。
このような形で犯人を晒す報道の在り方には賛否が巻き起こっている。
真実を伝えるべきだという信念と、犯人を目立たすなという抑制的な意見である。
犯人を晒した映像は一般人が撮影したものである。
映像を拡散した理由は犯人へのささやかな抵抗、もしくは怒りであるらしい。
そしてその映像には犯人を批判するコメントがたくさんついている。
これこそ犯人が望んだでいたことそのものであることをわかっているのだろうか。
犯人にとって厳しい言葉や責めの言葉は届かない。
ただ自分の顔が拡散され、人々に語られることを願っているのだ。
悪評は彼らにとって甘い。
犯人の犯行動機である「死刑になりたかった」というのは、自分がみじめにならないためのはったりにすぎない。
そのあと煙草を吸っているのも、自分は大事を余裕で成し遂げたという虚勢にすぎないのだ。
このような劇場型の犯罪者は、多くの注目を集め、犯行動機や素性を憶測され、ネットで語られ、デモを起こされることに快感を覚える。
悪役であることに魅力を感じているということである。
もしかしたら"犯罪者"と呼ばれることにすら快感を覚えているかもしれない。
本人を満足させることでもあるし、同じ性癖を持つ模倣犯を生む要因にもなる。
事件は報道するにしてもワイドショーにするべきではない。
これはメディアの責任である。
一般人もネットに拡散すべきではなかった。
正義感はあっても倫理には反する。
その正義感は犯人が持っている承認欲求と何ら違いはない。
"真実を伝える"という動機も、犯人を晒して復讐するという動機も、犯罪でしか自己表現できない犯人の思考と本質は同じである。
そしてネットで誹謗中傷する面々も。
■目立つことが価値あることではない
そもそも犯罪は大それたことではない。
どんなに大きな犯罪も若者が成人式やハロウィンで暴れている心理とさほど変わらないのだ。
暴れないというごく普通のことをしている人たちが立派なのである。
ただ顕微鏡で覗くように拡大しているから犯罪が大事かのように映る。
社会にとって影響があるかのように錯覚するのである。
報道は被害者の心境に焦点を当てるか、事件解決に向けて尽力した人などを取り上げるべきだと考える。
丁度、それと似た理論を説明してくれる専門家の記事があったので引用する。
「被害者の苦しみにフォーカスを」京王線刺傷事件 “模倣犯”を生まないために…メディアがすべき報道 (blogos.com)
記事では映像をセンセーショナルに扱うことによって犯人がヒーロー視されることへの懸念と早い段階で犯人の動機を分析するような報道をしないということが肝心とされる。
これの意識はテロ組織の自称を使用しないという風潮に似ている。
テロ組織は自らの犯行や残虐な映像を報道してもらい拡散せることにより自己顕示し、賛同者を募っている。
メディアや拡散する一般人たちが協力していることになるのである。
私たちは生き残った人や被害者となった人を報道で見れるようになるといい。
犯人については社会において実際はそうであるように、報道でも影の薄い存在であることが肝心である。
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