【小室眞子さん】加藤茶・加藤綾菜さん夫婦から学べる幸せな結婚の条件

2021年11月11日木曜日

社会

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国民から認知された夫婦

結婚

■小室眞子さんと加藤茶は似ている

2021年10月26日にめでたく結婚された小室眞子さんと小室圭さん。

ご結婚については様々な憶測と批判がありました。

それは偏に小室眞子さんが国民的に信奉される皇室の一人であったからに他なりません。

何かあればニュースに取り上げられ、その成長を共有してきた国民にとって愛情ないし愛着があったことを取ってみれば、それは年代もカテゴリも同じではないものの一度は国民的スターの仲間入りをしたドリフターズの一人、加藤茶に似ているといってもいいのではないでしょうか。

もちろん対象が皇室の方々であろうと、芸能人であろうと、また一般人であろうと、相手が傷つくようなことを言ったり書いたりしてはいけません。

私はそのように誹謗中傷する人をここで擁護するつもりはありません。

誹謗中傷のみならず、的確な批判であってもすべてがいいとは言えないと思っています。

事実だからとか正論だからと言ってなんでも言ったり書きこんだりしていいわけではありません。

ただ批判であろうと誹謗中傷であろうとなぜ多くの人がこの祝い事にそれほどまでのストレスを感じることになったのでしょうか。

小室眞子さん、小室圭さんの結婚に不快感を示す人たちをコラムニストの尾藤克之氏がその不快感の原因が国民の嫉妬であるとして「あさましい人たち」と評していましたが、私はこの評価は的外れな所が多分にあると思います。

理由は二つ。

一つは、小室圭さんの母、小室佳代さんと元婚約者の金銭問題が明るみに出るまではここまでの反対はなかったということです。

小室圭さんは「海の王子」とさわやかな好青年として紹介され、庶民とはいえ大学で眞子さんの心を射止めた幸運の持ち主として"羨ましがられた"存在でした。

もう一つの理由は、"嫉妬"という言葉は、批判者を蔑んだり挑発したりするために尾藤氏が意図的に選んだものであり、もう少しニュートラルな表現をするならば、不平等感という方が適切であると考えます。

そして嫉妬と呼ばれた不平等感は小室圭さん・眞子さんに対してではなく、皇室の体制における現代社会との不調和や宮内庁の怠慢に向けられているのです。

皇室の盾となってお守りすべき宮内庁がなぜ今回の件でここまで存在感がないのか、私は不思議に思えてなりません。

なぜ、後ろに隠れてお二人を操るような、もしくは世論を無理や変えるようなやり方をするのか。

このような対処能力の低さでは皇室の存続にかかわる懸念を疑われても仕方ないのです。

皇室は宗教的な面もあります。

国民の多くが自覚しているわけではありませんが、精神的な支え、日本人であることの自分自身のアイデンティティとして果たしている役割は決して小さなものではないと考えています。

これは信仰に係る問題でもあります。

ですから批判するなと単純に擁護すればいいといえる問題でもないですし、この国民のアイデンティティを守るには貧弱に見える宮内庁はじめ関係者への不満が矢面に立つ小室圭さんと小室眞子さんにぶつけられていると見ています。

これは海外では理解されにくいことでもありますし、もちろん日本国民みんなが理解できることでもありません。

■加藤綾菜さんと小室圭さんは似ている

一方、超有名人の加藤茶と結婚をした加藤綾菜さんは眞子さんのご主人となった小室圭さんと似ているところがいくつか見受けられます。

まず相手が住む世界の違う非常に格差のある相手だったということです。

経済的、知名度的には顕著なものです。

しかし経済的にも知名度的のように努力や運では変えられない覆しようのない類似点がありました。

それが加藤茶さんと加藤綾菜さんで言えば年の差、眞子さんと小室圭さんで言えば身分です。

どちらも玉の輿という評価です。

加藤綾菜さんは若かったため結婚したのは金銭目的だろうといわれ、夫婦の愛情というものを世間的に否定されていました。

小室圭さんも庶民の出であったため金銭目的と疑われ、愛を否定されています。


加藤綾菜さんも小室圭さんもそれまでの交友関係から派手さややんちゃさがあったため、相手への資質を疑われてしまうところもありました。


加藤綾菜さんに関しては彼女の家柄はもともとよかったという話もあり玉の輿というのは世間の印象に過ぎなかったというのが実のところだと思われます。

■小室夫婦が加藤夫婦に学べるところ

加藤茶と結婚して世間から厳しいバッシングを受けた加藤綾菜さん。

最近出した彼女のインタビュー記事を読んでから私の彼女に対する印象ががらりと変わりました。

「近年は介護や料理の資格を取得し、『コメディアン・加藤茶の健康寿命を延ばすのが自分の指命』」と記事の中で言っているように行動で証明しているのですからもう疑う余地はありません。

そして今の小室夫婦が世間から厳しい目で見られている原因を表したかのような気づきが加藤夫婦にはありました。

それは、

「加藤茶はみんなのもの」

という理解です。

記事で加藤綾菜さんはこう言っています。

「厳しい声を聞けば聞くほど"加藤茶"という存在の偉大さに気付かされ、そこに対する覚悟の足りなさを反省しました。私の夫には変わりないけど、加藤茶はみんなのもの。"みんなの加トちゃん"を守るために、自分も変わらなければいけないんだと世間のみなさんに学ばせてもらったような気がします」

結婚は個人二人の問題です。

しかしだからこそ、どう評価されるかも自分たちではコントロールする努力をする側面があります。


私個人の見解は、眞子さんと小室圭さんの結婚には反対ではありません。

小室圭さんのことをちょっと胡散臭いなぁと思ったことはあります。

正直ではないというか、虚勢を張っているようなところがあると思ったのは事実です。

しかしだからと言ってそれが眞子さんにとってふさわしくないという理由にはならないと思うのです。

やはり本人たちが納得しているのなら結婚は許されるべきであると思いますし、それで何か失敗や困難があっても自分たちの責任だと思うのです。

税金が無駄に使われるといわれていることもいいとは言いませんが仕方がないと思います。

負の面が見えたからと言って都合よく取りやめにするのは秩序に反します。

ある制度においてデメリットが明るみになったら、メリットの部分に鑑みて反省をもって修正するべきというのが私の考えです。

私が小室圭さんの対応でちょっと引っかかったのは小室文書でした。

28ページにも渡る小室圭さんの母親・小室佳代さんと元婚約者の金銭トラブルの説明文です。


自分が潔白であることを証明せんとする複雑な文章ではありましたが、金銭トラブルを不安視している人達に対して適切だったのかと疑問に思ったのです。


それよりも小室圭さんに求められていたのは国民に対する謙虚な態度であったのではないかと思ったのです。

確かに二人の問題である結婚になぜ国民を気にする必要があるのかというのはあります。

そんな義理も法律もありません。

しかし、何が正しいかという問題ではなく、どうしたら批判を和らげ、国民に自分の眞子さんに対する誠意を理解してもらい、結婚を穏便に進められたのかと考えると悪手であったのではないかと思います。


皇室ジャーナリストの山下晋司氏もこの文書は国民の誤解を解くうまいやり方だと称賛していたのを聞き、この人も大丈夫か?と思ったほどです。

国民感情に寄り添おうとされている秋篠宮殿下のご意向に真っ向から反していないかと思った次第です。

それでは皇室ジャーナリストじゃなくて小室ジャーナリストだろと。

戦後、皇室というのはその存在意義を保つために、国民の精神的支えになろうと非常に繊細で人肌の感じられる対応を行ってきました。

それは宗教という明確な立ち位置であってはならない、もっと文化的な生活に溶け込んだものであろうとしたからではないでしょうか。

しかし、それこそが無言の宗教であり、私たち日本人の精神的支えであり続ける戦後の皇室の思いだったのではないかと思います。

そのためこの小室文書は国民の不安に対して効果がなかったか、むしろ火に油を注ぐ形になってしまったといえるのではないでしょうか。


加藤茶の妻、加藤綾菜さんは時間をかけ、有名人の夫が自分のものだけでなくそれまで信じ支え愛着を持ってくれたみんなのものだという理解に至りました。

■小室夫婦がまだつかめていない幸せな結婚の条件

小室さんは、本当に眞子さんと出会って幸せだと感じていると思います。

愛の価値観は人それぞれです。

彼が眞子さんを愛しているという言葉を否定する権利は私たちにはありません。

しかし、同時に彼にも国民の多くが皇室を大切にしてきたという気持ちを理解し、眞子さんには個人の側面と、国民の信仰が向けられる皇室の一員であったという側面を受け入れる必要があります。


例えば一般人でも結婚する前に、普通はお互いの両親に挨拶に行きます。

その時に「娘さんをください」とか「○○んとの結婚をお許しください」というでしょう。

そして親族やそれまでにお世話になった友人、知人、学校の先生、会社の上司、同僚に「おかげさまで」という心持ちで式を挙げます。

結婚式も披露宴もそのような意味合いをもって行われます。


法律的に言えば、そして権利の問題で言えばそのような義理はありません。

子どもは親の所有物ではないので、「下さい」という必要もなければ、許しをもらう必要もありません。

でもなぜそれをするのかと言えば、今までお世話になってきた人にはこれからもお世話になるからであり、そのお世話がなければ出産や病気、相談事があったときに生活が困難になるからです。

現代では"お世話"を行政や民間企業が代役として行うことが多くなり、その風潮はなくなりつつありますが、ルーツはそういうところからきているといえます。


この"お世話"は"認知"と深いかかわりがあります。

知っているだけでお世話している・されている関係になるのです。

「お世話様」や「おかげさまで」は人間関係を円滑にする便利な返し言葉ですので何か褒められた時や認められた時には使うといいですね。


有名人に当てはめてみるとどうでしょうか。

税金とかスポンサーを通しての相手の収入になっているというのも確かにありますが、それを度外視にしても認知しているまたは関心を持ってきたという経験がその人にとってのお世話になっているという訳です。

考えてみると恩着せがましさや煩わしさもありますが、それが何かの拍子に助けになることもありますから保険みたいなもので、決して一方的な感情とも言い切れません。

留学に、資格試験、論文、就職、それは結構なことです。

しかし小室圭さんのあまりにも自分たちの結婚を大切にし過ぎる姿勢が、国民からは逆に独りよがりとみられてしまっていることも考えられます。

この小室圭さんの行動は小室眞子さんの助言もあったようです。

小室圭さんはともかく、小室眞子さんは生まれたときから国民目線で考えるように教育されてこなかったのかと考える人もいるかもしれません。

きっと、教えられてきたでしょう。

しかし、その教えが自分のものとして理解に至るには世の中に出て客観的に自分を見られるようにならなければなりません。

そこに至るまでには二人はまだ若すぎたというのが今回の騒動の要因ではないかと思います。


40歳、50歳になってようやくわかってくるものではないでしょうか。

皇室がみんなのものとわかるようになるにはまだまだ時間が必要でしょう。

あまりにも過去の批判がトラウマになって自己保身が続き、ずっと客観視できないまま歳を重ねてしまう恐れもあります。

そうならないように私たちも、"みんなの皇室"という意識をもって彼らの旅路を温かく見守る必要があるのではないでしょうか。

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