人をモンスターと呼ぶということは
理性を捨ててはいけない
埼玉県ふじみ野市で起きた訪問診療医者射殺事件についてフリーライターの相沢光一氏の記事。
「寝たきり大黒柱」で食っている"モンスター"はウヨウヨいる…訪問診療医射殺事件に介護現場は震撼(相沢光一)
確かにこの事件は医療従事者・介護サービス事業者にとって、そして介護をする立場、される立場の人たちにとって衝撃的かつ生々しい物であった。
殺されなくても暴力や暴言に遭うことは日常茶飯事だ。
そしてそれがエスカレートすることもあり得る。
介護職は安全な職業とは言えない。
そんな介護者を庇う目的か、上記の記事には利用者の家族をしてモンスターや年金ミイラ、パラサイト介護者などと呼ぶ言葉が頻繁に出てきた。
一昔前、学校の教育現場や保育園・幼稚園で問題になったモンスターペアレント、医療現場で問題になったモンスターペイシェントが思い出される。
従事者を悩ます人間をモンスターと呼ぶ。
それは事業者側の共感を得るためだろうか。
はたまたそのような利用者側の自覚と反省を促すためだろうか。
しかし、モンスターは怪物、化け物という意味だ。
そこからは人間の手に負えない意味合いは感じられるかもしれないが、どちらかというと人間的でない、理性を失ったといったイメージが強いと思うがどうだろうか。
もちろん医療従事者の説明を聞かない、一方的に自分の要望を述べるさまに理性が感じられないと思うのはもっともである。
しかし、自らの手に負えないもの、自分の理解できないものをモンスターと呼ぶのは、そう名付ける側にも理性を手放している側面があるとは言えないだろうか。
西洋でも日本でも、人は自分たちに理解できないものを怪物だとか妖怪だと言って忌み嫌ってきた。
しかし臆することなくその正体を解明しようとした学者たちによって恐怖の対象から除外されてきたのである。
善悪ではなく知っているか知らないか
こういう俗称をつける行為は現場の人間が自分の心を守るためにされるともいわれている。
私も研究者から介護職の人間まで様々な立場の人が、利用者の異常行動を動物や動物の生理現象に例えて笑い話にしているのを知っている。
そしてそれらを行うもの自らが、これは自己防衛のためだというニュアンスを使っていた。
私はこれに同情はできるが共感はできない。
私は利用者やクレーマーに罵倒されても「はい、そうですね」と受け止めることができるからだ。
これは性格的なものだと思う。
どちらかというと、私は同僚に「そのやり方は違う」と否定される方が傷つくしやりにくいと思う人間だ。
だから同業者や同僚が利用者を茶化すような言い方をするとき、大変なんだなぁと理解は示すものの、私から利用者の文句を言うこともないし、いやだと思ったこともない。
それが仕事だと思っている。
恐らく利用者に不満を持つ人は持たない人のことを理解できない。
偽善者とかきれいごとを言う人間と思っているのかもしれないが、本当にそういう感情が沸かないのだ。
だから聖者気取りと言って仲間外れにしたりイジメたりしないでほしい。
逆に、介護サービス事業者が利用者を虐待するケースも沢山ニュースになっている。
すべての人がやりたくてこの仕事についているわけではない。
他に行くところがなくて生活費のために働いている人もいる。
また、最初は志を持っていたものの出世競争や人間関係のこじれによって次第に暴力的になっていくケースもある。
引用記事自体は問題提起として勉強になるものも多い。
取材を受けたケアマネジャーがモンスターという呼称を使ったわけではない。
介護事業にはまだまだ改善点が沢山あるのは事実だ。
ただそこには利用者や利用者の家族をモンスターと呼ぶことのなくなるほどの介護サービス事業者への待遇の改善、教育が含まれていると思う。
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