子どものための教育について皇族と庶民の共通点を探る
国民の理解と実際との乖離
眞子さんと佳子さまは、時々愛子さまと比較されることがある。
それは本人たちを対象にしたものもあれば、その教育方針に焦点を当てたものもある。
眞子さんと佳子さまのお父上であられる秋篠宮殿下は、子どもたちの選びを尊重し、自由な環境を作る努力をされてこられたようである。
眞子さんの結婚のことで批判的な声もあったが、皇族であっても自分で決めた道を進む権利や、自分の信条を尊重される権利はあってしかるべきであると思う。
「天皇」の解釈が国民の中で変わってきているし、変わるように天皇陛下御自身が努力されてきたことは歴史のここかしこで見ることができる。
そう言った価値観の改革を秋篠宮殿下は率先してされてこられたと推察することもできる。
ただ少し急進的だった印象はあるし、自発的だったことで目立ってしまったこともあっただろう。
ただそれは好感があった場合は英雄視されるし、何か厄介ごとが起こったときは問題視される非常に流動性の伴った世論の弱点でもある。
事実に基づく多角的な検証などされない。
世論は言論に責任を持たない。
理想と現実の乖離
皇室の自由の尊重は主張されてしかるべきだが、現実は自由ではない。
自由ではないけれど自由であるべきだと教えることは、お子様にとってどのような影響を与え得るのだろうか。
それはもしかすると「お前は将来プロ野球選手になるんだ」と親の理想を押し付けられた子どもと似た環境を作り出してしまうのではないか。
庶民と皇族の理想は逆ともいえるようだけれども、どちらも現実と乖離していればそれだけ精神的負担は増えるだろう。
また自由が大事と教えながら他のところで親の意向が強く子どもを束縛してしまえば価値観の矛盾にも苦しむことになる。
理想を言えば言葉による教えよりも生活スタイル全般での教育量が上回っていることに思う。
例えば自由についてそこまで口にしていなくても、失敗した時に許してくれたり、進路について尊重してくれる姿勢を示してくれたりと非言語での教育に説得力を持つこともある。
秋篠宮殿下がご自分の経験や環境をご覧になってそのような教育方針をとられたとすれば、やはりまだ言葉と現実の間に差があったとしても不思議ではない。
かといって今後問題が起こるだろうからと皇族の教育における自由の概念を限定的にすればいいかと言えばそういうことではない。
幼少期から自由を知らずに育てられればもしかしたら、眞子さんや佳子さまが感じられたような不平等感や閉塞感は回避されたかもしれないが、それは倫理に甚だ反することだろう。
それゆえ現時点では実験的で危うく思えるこの変革も必要なのではないかと考える。
皇室の問題は皇族ご自身で変えていかなければならない難しさがある。
そして国民はそれを簡単には許さないし理解できない。
しかし本質には私たち庶民が抱えている家庭問題にも似通っているところもある。
そこを材料に国民の理解を得られる方策は何かないかと思案するものである。
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