FF7リバース改悪シナリオ2|レッドXIIIと父セトの物語新旧比較

2024年3月4日月曜日

ゲームレビュー

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待ちに待ったあのイベント、一番好きな人も多いはず

コスモキャニオンのナナキと父セト

FF7には目頭を熱くさせるシナリオがいくつかあります。

その一つがコスモキャニオンに訪れた際、レッドXIII(ナナキ)が蔑んでいた父親の真実を知るところです。

コスモキャニオンがギ族の襲来により危機に瀕した時、逃げ出したレッドXIIIの臆病な父セト。

しかし実はセトは逃げたのではなくギ族の侵入を防ぐため一人谷の奥の洞窟にとどまり、闘っていたのでした。

石化させる毒矢を受けたセトは石像となって今も谷を見守っているのでした。

とてもシンプルで比較的短いイベントですがその分わかりやすく心にしみやすく好きな人も多い印象です。

リバースでこのイベントが見られるのがとても楽しみで実際感動的なシーンに出来上がっていましたが、見終わってみるとオリジナル版の方がよかったかなと思いました。

一番私が感じた違和感はブーゲンハーゲンがただの堅物で視野の狭い人物のように変わってしまっていたことです。

人間的に成長しきれていない残念なブーゲンハーゲン

ブーゲンハーゲンがレッドXIIIにクラウドたちと旅を続けるように諭すシーン、

  • オリジナル版ではブーゲンハーゲンは世界を救うなんてできない、すべての魔晄炉を止めてもセフィロスを倒してもほんの少し星の寿命が伸びるだけ、形あるものは必ず滅す、だが星が苦しんでいるのに何もできないのか、結果はどうであれ何かやることが大切なのではないか、自分は運命を受け入れすぎるのではないかと、膨大な知識を得たためによる俯瞰性を自責しています。
  • リバース版ではブーゲンハーゲンはクラウドたちの話を信じておらず、セミナーの連中がしそうな話だと軽く受け止め、新しいものを見ても聞いてもなーんか知っているような気がして、だがそれで偉大な知見が含まれているかもしれない可能性を見過ごすようになってしまったのではないかと、膨大な知識を得たことによる欺瞞を自責しています。

オリジナル版のブーゲンハーゲンは学者の強みと弱み(知っているからこそ静観してしまう)が表裏一体となっていて人格者としての整合性はありますが、リバース版のブーゲンハーゲンは学者の学んでいるから学んでいないものを取るに足らないものと思うという人としての未熟さを露呈してしまっているのです。

歳を言い訳にしているように聞こえる

もちろん弱さも人の魅力であることは間違いありません。

彼が30歳くらいだったらまだ若いからしょうがないと思えたでしょう。

しかし彼は130歳。

その辺はもう乗り越えていてほしかった。

歳をとったら他人を受け付けなくなるような言い方に聞こえるところが彼の魅力を低めてしまっているような気がします。

体力がなくなって冒険はできなくても精神的には成長できる。

子どもの疑問でもスラムのギャングのボヤキでもどんなものでも興味を持つ。

そういう垣根を作らず学んでいく人であってほしかった。

そういう人はすでにいて、そういう人に負けないでほしかった。

ただの頑固な老人であってほしくなかった。

オリジナル版のブーゲンハーゲンは尊敬できるおじいさんですが、リバース版のブーゲンハーゲンは残念なおじいさんという印象にになってしまっているのです。

そして「行けナナキよ!この谷でジジイ色に染まるな」と言っていますが、この感動的なシーンと微妙に合わないのが残念です。

「試験は不合格!」とレッドXIIIが谷に留まることを許しませんでしたが、「試験は合格、それでも世界を見て回ることが回り回って谷を守ることにつながる」とした方がブーゲンハーゲンの精神年齢を上げられただろうと思います。

オリジナル版は人間がもし130歳まで生きられたらどれほど成熟された者になるだろうとの好奇心をくすぐるキャラクターを生み出したファンタジーでしたが、リバースのブーゲンハーゲンはただただ130年間生きた元気なおじいちゃんといった感じなのです。

ここで人間味があった方がリアリティーがあると反論する人がいるかもしれません。

それなら70歳くらいの設定の方がリアリティーがあったでしょう。

3,40歳でもリバースのブーゲンハーゲン以上に成熟している人間は現実にだっているのです。

130歳というファンタジーを見掛け倒しにしていることは否めません。

なぜレッドXIIIは一瞬で自分の父親だと分かったのか

オリジナル版

ブーゲンハーゲン「……その戦士はここでギ族と戦った。ギ族が一歩たりともコスモキャニオンに入りこめないようにな。そして自分は二度と村へ戻ることはなかった……」

ブーゲンハーゲン「見るがいいナナキ。おまえの父、戦士セトの姿を」

石になったセトを見上げる一同。

レッドXIII「……あれが……あれが……セト……?」

ブーゲンハーゲン「セトはあそこでギ族と戦いつづけた。この谷を守りつづけた。ギ族の毒矢で体を石にされても……ギ族がすべて逃げだしたあとも……戦士セトはここを守りつづけた。いまもこうして守りつづけている」

レッドXIII「いまも……」

ブーゲンハーゲン「たとえ、逃げだしたひきょうものと思われても、たった1人、命をかけてコスモキャニオンを守ったんじゃ。それがおまえの父親セトじゃ」

リバース版

ブーゲンハーゲン「戦士はひとりこの地で戦い谷を守った。そしていまもここで我々を守り続けている」

セトを見上げる。

レッドXIII「じっちゃんあれって。あれがセト?おいらのチチ……」

ブーゲンハーゲン「毒矢で体は石になってしまったが崩れることなく欠けることなくあの勇姿じゃ」

オリジナル版ではブーゲンハーゲンが「あの石になった戦士がお前の父だよ」と教えていますが、リバース版ではレッドXIII自らが「あれが自分の父親セトだ」と見た瞬間気づきます。

レッドXIIIがなぜ一瞬で自分の父親だと気づけたのかは説明がありません。

もしかすると、幼い頃の記憶が残っていたのか、においが残っていたのか、同種族は自分の家族以外いないとわかっていたため察することができたのかもしれません。

ただ演出としてはオリジナル版のブーゲンハーゲンが教え、徐々に父への疑いが晴れ、最後に父を誇りに思うレッドXIIIの方が感情に訴えるような気がします。

両親がレッドXIIIに事実を教えなかった理由が補完される

オリジナル版ではこのイベントまで父親の真相についてレッドXIIIに明かされなかった理由が、知らせないことが両親ののぞみ、「こんな洞窟のことは忘れた方がいいから」と少し漠然としています。

しかし、このつらいことを子どもに伝えないという親の心情に現実味がないわけではありません。

第二次世界大戦で差別を受け収容所に収監された日系アメリカ人らが、不当な扱いを受けたにもかかわらず賠償も要求せず死ぬまで沈黙を守りとおしたという史実があります。

それは自分の子どもに惨めな思いや憎しみを残したくなかったという親の愛情とアメリカへの忠誠心からくるものでした。

リバース版では、レッドXIIIが「なんで教えてくれなかったの!」と食って掛かります。

それに対してブーゲンハーゲンは、教えたらレッドXIIIは父親に会いに危険な谷に行ってしまった、しかしまだ弱いのできっと死んでしまった、父と母が守りたかったのは他でもないレッドXIII、ナナキという自分の息子だったと答えます。

ここではオリジナル版の煮え切らなかった部分が明確にされていてよく考えられたシナリオになっていると思います。

ただ、見方によっては補完のための「なんで教えてくれなかったの!」というセリフが強すぎて「臆病だと思っていた父親は本当は勇敢な戦士だった」という真相解明のカタルシスが弱まってしまっているとも取れます。

もう少し落ち着いた雰囲気で会話を進めることもできたはずです。

ブーゲンハーゲンが「世界を見てくるのじゃー!」と声を荒げたり、リバース版は過剰演出が目立ちます。

声を荒げる、吠えることで視聴者に訴える手法は、例えば大河ドラマの龍馬伝や半沢直樹に影響を受けた社会派ドラマに一時期多く見られましたが、裏を返せば演出力の無さを勢いでカバーしようとする試みともいえます。(半沢直樹ではなく半沢直樹以降のドラマについてです)

リバース版では全体を通してせっかくの完成されたシナリオが過剰演出によって雰囲気を壊されている部分がちらほらありますが、特にコスモキャニオンのイベントではそれが顕著に表れています。

念のため補足しておきますが、これは声優の責任ではありません。

シナリオライター、演出指導、監修の責任です。


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