かぐや姫の物語が原作クラッシャーだと思うワケ

2023年11月9日木曜日

映画レビュー

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竹取物語は原点であり頂点

現存する日本最古の物語として知られる竹取物語。

これが「かぐや姫の物語」としてアニメーションになったため楽しみにしていましたが鑑賞後にとてもがっかり。

監督の高畑勲氏の解釈と表現方法があまりにも稚拙。

わかりやすいといえばわかりやすいんでしょうけど、言いたいことはわかるけど、原作の竹取物語の良さがことごとく壊されてしまっているのです。

この物語の中で高畑勲氏、彼には富と権力への批判が垣間見えます。

この権力・富への批判は実際、原作である竹取物語にも解釈によってはあるといえます。

裏を返せばそれは富でも権力でも買ったり奪ったりすることができない愛もしくは人間の価値を訴える普遍的なテーマを取り扱った哲学的物語ということも言えるでしょう。

しかし、その方法が原作に遠く及ばず、むしろ原作クラッシャーと呼んでいいくらい稚拙なものとなっているのです。

特にかぐや姫に恋した御門(竹取物語では帝)の描写が全く違います。

高畑勲のかぐや姫の物語

御門は顎が突き出ている特徴的な姿をしています。

もちろん顎が出ているからと言ってそれが醜いとは思いませんが、高畑勲自身の意図を読むとすれば、恐らく醜いことを表現したかったのでしょう。

いちいち顎が出ていることを強調したアングルを取ってきます。

また、御門はとてもナルシストで女性の気持ちを全く考えない不遜な性格に描かれています。

権力者を醜く、だれが見ても性格が悪く見えるように描く、これが高畑勲がとった富と権力への批判の方法なのです。

原作・竹取物語

こちらの”帝”はかぐや姫と和歌でやり取りをする知的な男性であり、かぐや姫を知ってからは他の女性に見向きもしない一途な姿勢を見せています。

軍隊を持ってかぐや姫の迎えに抵抗しますが全く歯が立たず連れ帰らされてしまいます。

かぐや姫は最後に手紙を送ります。

そこにはこう書いてありました。

「いまはとて 天の羽衣 着る時ぞ 君をあはれと おもひいでぬる(最後だと、天の羽衣を着るまさにその時に、ふとあなたをしみじみと思い出してしまうものね)」

ここには求婚を断りはしたが、かぐや姫が人らしい女性らしい一面を持って一人の男性に心を開いたような純情さが垣間見えていい感じです。

砕けた言い方をすればキュンとするということですね。

手紙には不死の薬が添えられていましたが、かぐや姫を失った帝は「会うことも無いので、こぼれ落ちる涙に浮かんでいるようなわが身にとって、不死の薬が何になろう」と歌を詠み、家臣に命じて日本で一番高い山の火口に手紙と不死の薬を捨てさせます。

権力者と言えば永遠の命は欲しいもの、それよりも大切なものを帝はかぐや姫から教わったのです。

まさに愛が、富と権力に勝った瞬間でした。

かぐや姫が去った後、帝が食事もせず、歌も楽器もやらなくなったところも帝の人間らしい一面を表しており、権力者もただの人間なんだと思わせてくれます。

不死の薬を預かった家臣らが自分で使ったりせず、帝の命に忠実に従ってそれを燃やしたことにも感心します。

竹取物語 - Wikipedia

竹取物語は日本の遺産、日本人の誇り!

不死の薬を燃やした日本一高い山はそれにちなんで富士山と名付けられたという話も秀逸です。

高畑勲のかぐや姫の物語にはこのエピソードはありません。

高畑勲氏がただ権力者を馬鹿っぽく、醜く描くことでしか反抗できなかったことは残念で仕方がありません。

これが莫大な予算を投じて制作されたことも、彼の遺作になってしまったことも残念です。

私自身の思い付きですが、この不死の薬を燃やした煙が日本中に拡散し、そのとき病に苦しんでいた人たちが回復したらジブリっぽい終わり方だったとも思います。(どちらかというと宮崎駿的ですが)

かぐや姫に恋して失って、富・権力よりも大切なものを見つけた帝がとった選択が、帝一人ではなく国中にいい影響をもたらして、そして今や日本は長寿国何て言うのもロマンチックです。

竹取物語ってとってもロマンチックで最後はヒロインによってみんなが成長する凄い物語だと思います。

現代の日本でも富と権力は人間の幸福度に深いかかわりを持っています。

でもそれだけが価値ではないと教えてくれるこんなに素晴らしい話が昔々日本にはあるのです。

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