参政党・神谷宗幣氏の「発達障害など存在しない」で広まる誤解

2025年7月17日木曜日

政治

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発達障害は人間が決めたもの

発達障害が存在するか、それともしないか。

答えは簡単、確実にある。

理由は明確、人間がそう決めたからである。

人間があると決めたのだからあるのだ。

障害というのは、ある困難な物事について、配慮すべき要因を定義づけたもの。

例えば

”学校で子どもが先生の言うことを聞かない”という事象が発生した。

その要因は何か、要因を定義づけ、名前を付けて支援しましょう”

という流れ。

起きたこと、起こっていることについて先人が共有した知識であって、人間の構造がどうのという基礎医学を論じているわけではない。 

例え、神谷氏が「発達障害はない!」と言い切ったとて、「じゃあ他になんて呼びますか?どうしますか?」と再定義が始まるだけ。

身体障害、精神障害、知的障害、そして発達障害と、高速化・複雑化する人間社会において無視できなくなった要因に名前を付け、「それじゃあこういう場合はこうやって助け合わなければならないね」と決めたルールと言ってもいい。

その証拠に、どの障害にも法律が紐づけられていて、質の良し悪しは別として対策される形になっている。


発達障害が存在しないとの誤解が広まらないことを願う。

脳機能や神経伝達物質の違いが、MRIやfMRIなどの研究で示されてもいるが、科学や文明を否定している人には響かないかもしれないので、上記で挙げた状況証拠の方がまだ理解してもらえる希望がある。

発達障害は教育で治るとは

もう一つ、誤解をたださねばなるまい。

神谷氏は発達障害について「通常の子供たちと全く同じ教育を行なえば問題ありません。そもそも、発達障害など存在しません」と自著に書いたようだ。

「全く同じ教育」というのは、発達障害を持つ子供に対して全く逆効果の対応なのだが、ひとまずそれは置いておいて、仮に、その教育というもので発達障害が治るもしくは発現しないとしよう。

現実的に考えて、日本中の子どもにその正しい教育を行える人が一斉に誕生するはずはないし、その教育方法が浸透するまではやはり、生活に支障をきたすグループが出てくるだろう。

するとそこには何らかの障害があることになり、結局これを発達障害ないし何かの名称で呼ぶ必要があるのではないか。

結論から言えば、発達障害の発現は免れないということになる。

障害の定義は更新される

障害というものは理解しにくいのかもしれない。

時代によって、環境によって、社会の理解によって変わっていく。


例えば身体障害。

手が動かない、歩く筋力がない、心臓のリズムが乱れるなど、通常と異なることが明確であれば、そしてそのために生活に支障が出ているとあれば、それを障害と認めるのはわかるだろう。

医療技術の発達によって解明されたり、機能補填が開発され軽減されることもある。

また、知的障害はおおよそIQ70以下とされるが、IQは相対的な評価であり、文脈によってその意味合いは変わる。

農作業が主だった時代に比べ、事務仕事が主流となった現代では、IQの差が仕事の評価や適応のしやすさとしてより顕在化しやすくなっている。


発達障害の場合は、ことさら環境要因で見えにくくなることが多い。

ケース1

例えば発達障害の一例としてよく取り上げられるのが、学校の勉強できないというもの。

ただ、知的障害とは違う。

根本要因は脳の働き方でその働き方というものが多種多様、勉強ができないというのは結果に過ぎない。

発達障害の人は知能が低いわけではない。

つまり、理解の仕方や、勉強に対する価値観が大多数よりも違っているので、一般的な方法では勉強に取り組めないということだ。

普通は先生の話を聞くことにより、いま何を何のために学んでいるかを把握する。

しかし、発達障害のある子どもはこの人は誰に向かって話しているんだろうか、自分に向けて話しているように見えないと考える。

たしかに、人と話す時は”普通”は相手の目を見て話す。

だけれど、先生は天井を見ていたり、他の生徒を見ていたり、黒板を見て話しているから、自分には無関係だと考えるというのはわからなくもないだろう。

そして、3人家族の食卓や10人くらいのクラスであればまだ”会話”らしきものが成り立つが、一クラス40人にでもなればもはやそこに会話らしきものはない。

発達障害が環境により発見されたり、されなかったりというのはこういうところにある。

これは発達障害の一例ですべてというわけではない。

ケース2

他にも、”普通”は勉強しろと言われたら勉強しなきゃと大人の言うことに従うが、発達障害の子どもの中には勉強する理由も動機もわからず、

しかし、知能が低いわけではないのでちゃんと理由を説明されれば、すんなり勉強を始める子もいれば、勉強はしないがゲームや絵、音楽、プログラミングの興味のあることしている時は、人並みに、時にはそれ以上に成果を発揮する場合もある。

危機意識が高すぎて、人を避けたり、外出すると人一倍緊張したり。

そしてこういう”個性”は誰にでもあるのだが、それが極端になり、社会が作ったルールや環境から逸脱してしまうと生活に支障をきたし、障害と判断されることになる。


このように、発達障害を発見するには広い視野による社会構造への観察力が必要となる。

そして、神谷氏の言うような「通常の子供たちと全く同じ教育」が一番本質から遠い対処法なのである。

発達障害は個性か

神谷氏は発達障害を漫画ドラえもんに登場するキャラクターである、のび太、ジャイアン、スネ夫のような個性という認識でいるが、個性で済ませてはいけない部分がある。

しかし、面白いのでこのたとえを拝借してみると、寝坊と宿題忘れののび太も、短気で乱暴なジャイアンも、嘘つきで見栄張りなスネ夫も漫画だから個性で許されているところがあるともいえる。

のび太型

成長ホルモンのバランスが崩れ、規則正しい生活ができない子どももいる。

集中力を保つのが難しかったり、好きなことに過集中して勉強がおろそかになる子供もいる。

学校にいけないことでクラスメートからずる休みと言われ、鬱になる子供もいる。

ジャイアン型

口げんかで勝てないと手が出てしまい、クラスメートに暴力をふるい怪我を負わせてしまった。

力加減ができず、相手の髪の毛をむしり取ってハゲを作ってしまった、頭をつかんで廊下の床にたたきつけ歯を折ってしまった、ホウキをフルスイングして眼球破裂で失明させた。

スネ夫型

常にグループで派閥を作り、誰かを仲間外れにする。

物質的な評価を得られなければ満足できない欲求不満とぬぐえない孤独感。


もちろん、のび太たちは反省したり踏みとどまったりしているので彼らは立派な大人になるだろう。

しかし現実を漫画と一緒にしてはいけない。

殴ったら怪我するし、追い詰められれば自殺を選ぶ場合もある。

”現場”は神谷氏が思っているよりもずっと過酷で冷酷な場合もあるのだ。

漫画では“個性”として描かれる行動も、現実では自他に深刻な影響を与える場合がある。

だからこそ、支援と理解が必要ともいえる。

教育は万能ではない。

むしろ、教育こそが個々の違いを理解し、支援するための手段であるべきなのだ。

もし日本人らしさを教育に取り込みたいのであれば、寺子屋に着想を得るといい。

教育の在り方は教師の数だけあり、また生徒も自分に合った師を選ぶことができる。

秋田県は生徒の自主的な教育を幕末からの伝統として守り、学力テスト全国一位と学びの楽しさを両立しているいい例である。


個性も使い方によっては間違ってはいない。

人の価値に優劣はなく、脳の働きが他人と違ってもそれは個性だと勇気づけるつもりで使うことは発達障害と向き合う本人や周囲の人の口から出ることはあるだろう。

しかし、その個性が周囲とぶつかり、問題が起こっているのなら、障害として本人と周囲に認知させ、コンセンサスを図る必要がある。

本人と周囲がこういう障害があると理解すれば、お互いに付き合い方がわかってくる助けとなるだろう。

障害認定はスティグマではなくサインである。

それは”助け合いの起点”であり、社会が個人を排除するためのラベルではなく、共に生きるための合図なのだ。


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