脚本家吉田恵里香の力量?虎に翼はなぜ大味になってしまったのか

2024年9月27日金曜日

映画レビュー

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後半失速した惜しい朝ドラ

この朝ドラ、決して駄作ではありません。

活力と優しさと個性豊かな知恵と悩みが入り乱れる群像劇。

高く評価する人もいるでしょう。

私も観始めた頃、一つの言動に表面だけではわからない登場人物の人生的深みを持たせられる知的な作りになっていると感心していました。

例えば、寅子が進学したいと担任の女性の先生に相談した際、自分が教育を受けてきた立場であるにもかかわらず、あまり応援する様子はなく、むしろ普通の女性として生きていくことを推奨するかのような言葉をかけました。

そして寅子が教室を出た後、傾いた夕日に先生の佇んだシルエットだけを映すのです。

このエピソードを見て、ある人は「先生自身も女性であるにもかかわらず、寅子を応援しないなんてひどい。女性の社会進出が理解されない時代」という感想をSNSで発信していました。

しかし、あの先生の夕日に臨む姿を見ると、恐らく先生は教育を受け社会的地位を手に入れたものと引き換えに失ってしまったものがあった、(話の経緯からして結婚相手としてみてもらえない。家族を持って普通の暮らしができない)

と思わせるのです。

そしてこの後、その真相が明かされるのかなと思って何話か進んでも先生は登場しない。

あえて、視聴者に解釈や気づきを任せるスタイルなのです。

ですから、そういう機微や哀愁を理解できる面白さがあり、私は見続けようと思うようになりました。

雲行きが怪しくなった後半

ところが、このドラマにかける期待は見事に裏切られることになります。

だいたい新潟赴任の辺りから。

新しい夫となる星航一さんとの出会いもミステリアスでちょっと不穏な展開ではありましたが、仕事をこなしている寅子らにワクワク感がありました。

これから裁判官として様々な事件を扱い、様々な被告人と顔を合わせるんだろうな、そして有名な被告とその家族に涙を流させるような愛情のこもった三淵流の説諭が聞けるんだろうなと思いきや、裁判官としての描写は皆無。

どちらかというと、級友たちがかかわる事件や社会問題がクローズアップされ、弁護士たちの働きが主体となっていく。

寅子と言えば、航一の子どもとのかかわりを描くホームドラマに忙しく、しかもモデルとなった三淵氏の実際とは全く違う。

肝心の、肝心の原爆裁判もあっけなく終了、航一の子どもとの軋轢も即解決、事件を起こした少年少女たち、とくにミサンガで強烈なインパクトを与えた少女との対面も即解決。

このドラマの印象を端的に表すならば「思わせぶりの肩透かし」。

初登場はクセの強いキャラがでた、ひと悶着ありそうと思わせてすぐに仲良し、これは大事件だとセンセーショナルな演出をして他人事でスルー、人に歴史ありと被告人と対峙させるも都合のいい綺麗ごとを言って涙を流して終了。

これの繰り返しです。

朝ドラではもはや定番ではありますが、最初の勢いはどうした!と言いたくなります。

ドラマへの感想から起こる論争

よく目にした意見が、「いろんな題材に手を出しすぎて内容が薄い」というものです。

どうせなら題材を絞って一つ一つ深堀した方がドラマとして面白いということでしょう。

これに対する反論で「浅く見えるのはあなたの理解力が足りないだけだ。許容量がないからだ」という意見も目にしましたが、それは的外れと思います。

人にはそれぞれ趣向や予備知識の違いがあります。

ある人は幼少期をクローズアップしてほしい、ある人は戦争の経験をクローズアップしてほしい、ある人はこの人物に、ある人はあの場所をと人によって興味が違うのです。

ですからもっと深堀してほしいという意見に、理解力が足りないというのはズレた指摘です。

なぜ後半にとっ散らかるのか

ドラマを批判する多くの人は脚本家の力量を責めます。

しかし本当にそうでしょうか。

その可能性も否定はしませんが、序盤を高クオリティーで作っていた脚本家の吉田氏に才能がないとは思えません。

考えられるのは現場との齟齬です。

ドラマ制作が脚本家の意図を理解しない

例えば監督や演出など脚本を実際に映像化する人たちが、脚本家の繊細な意図を理解できなかったということです。

先ほど最初に例を挙げたように、寅子の女性の先生がなぜ寅子を応援しなかったのか、解釈にも違いが出ました。

ドラマ制作者らが脚本家の意図を理解しないで大事なところを省いてしまった。

そんなことある?と思うかもしれませんが、無きにしも非ずです。

もちろん理解しなかったではなく、尺が足りなかったということもあるかもしれません。

そしてAとBは対になっていなければ意味を成しえないのにAだけ撮ってBは省いてしまったら、そのドラマは薄い内容になっても仕方がないのです。

脚本の急な変更

これも例えばの話です。

このドラマで主人公に勝るとも劣らない人気を得たのが、級友の轟とよねです。

そうすると、視聴率第一主義のプロデューサーがこういったかもしれません。

「轟の出番を増やせ!よねのエピソードをねじ込め」

指示を実行するために監督は泣く泣く脚本を訂正します。

もっと泣きたいのは脚本家の方です。

せっかく完成していた話を変えて、新しい話を作らなければいけない。

調べが足りないので内容も薄くなり、相互関係も支離滅裂になります。

これは例えばの話ですのであしからず。

しかし、こういうことはありそうだなと思うわけです。

プロダクションからのNG

このドラマで非常に違和感があったのが、50代の役柄なのに俳優たちが軒並み若くてどれがおじいちゃんでどれがお父さんか、はたまた息子かわからない。

おばあちゃんも、お母さんも、娘さんもみんな同じ位の歳に見えるから食卓に家族っぽさがない。

あれから何年経ったかわからない。

一部では、プロダクションが俳優のイメージを守るため、老けさせるメイクを忌避しているとの噂があります。

たしかに主役の寅子を演じた伊藤沙莉さんは最後まで白髪やしわを作ることはありませんでした。

後夫の星航一を演じた岡田将生さんは老けメイクをしましたがわずか数秒。

本当に老人として役を演じたのはもともと恒例だった人を除けば桂場等一郎を演じた松山ケンイチさんくらいでしょうか。

そしてこういう老けメイクというのは一人がNGだと同年代の周りもできない。

だから誰が老けメイクNGだったかというのは断定できないのです。

老けないせいで食卓を囲むだんらんの家族などのシーンは誰が親で誰が子どもなのかわかりずらいという結果に。

これも確証があるわけではありませんが、そういうプロダクションの意向で、もともと考えていたエピソードを変えなければいけなかったり、喜怒哀楽の表現をマイルドにしたり、悪者に徹せられなかったり、本当はそういう課題こそ俳優を育て、世間に印象付けるのでしょうけど、実際にやっていないのだからやらせたくないと思われても不思議ではありません。

脚本家の実力イコールドラマの出来、とは言えない

もちろん、脚本家の吉田恵里香さんもSNSにおいて裁判所における裁判官・弁護士・検察の配置などは今回のドラマのための取材で初めて知ったといっているくらいですから、法律関係に精通した人ではないようです。

ですから、あえて裁判を主題にしなかった(できなかった)ということも否定はできません。

ただ私が言いたいのは、仕事というのはいろいろあるんです、ということです。

脚本家が全責任を負うような批判は大いに行き過ぎた味方ですし、同時にドラマの質を擁護するイコール脚本家を擁護するともならないということです。

それすなわち、脚本家はよくやった、でもこのドラマには沢山惜しいところ、ちぐはぐなところはあったねという批判は両立するものなのです。

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